射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

ドキュメンタリーは信じない

最近のテレビニュースは演出が過剰である。
驚くべきことにナレーションにBGMを被せたりする。ネガティブなニュースではおどろおどろしい音楽がかかる。人物の声を声優と思しき人に喋らせたりする。悪人は悪人らしく、善人は善人らしく。

もはや印象操作を隠そうともしない。

もはやニュースでも報道でもない。下世話なワイドショーである。NHKの7時台のニュースですら、そうなった。もはや「報道の体」すら放棄し無責任な「創作物」であふれている。

インターネットで文字だけでニュースを読んでいる方が、余計な先入観にとらわれずに済んでよい。ネットが当たり前の若い人にとってテレビ界はいよいよオワコンである。

こうなるとテレビニュースは「何を伝えるか」ではなく「なにを伝えないか」を確認するためのものであると考えないといけない。そう思えば、なるほどなるほどと面白い。

そしてほぼ同じ手法をとる「ドキュメンタリー」もひどいものである。

最近NHKで放送された「河瀬直美が見つめた東京五輪」のなかで不確かな内容があったとされ、物議を醸した。

ニュースからして世論操作が目的であると隠しもしないのに、「ドキュメンタリー」は真実だとでも思っているのだろうか。

顔にモザイクをかけ声を加工された「自称関係者」が言うことは真実であると証明できず、そのようなものは信じてはならない。

「河瀬直美が見つめた東京五輪」のなかで、インタビューに答えていた反対デモに参加していたというおっさんだって仕込みに決まっているだろう。本物だという証明はないのだから。

この一件は五輪反対派と賛成派がそれぞれ騒いだから話題になった。どちらも自分が信じるもの信じたいだけである。

ドキュメンタリーは創作者やその所属する運動体が「見る人をどこに誘いたいのか」を確認するために見るものである。そう思えば、なるほどなるほどと面白い。

斉藤和義の「ウナナナ」と言う曲の一節に「ドキュメンタリーなんて信じない カメラはそこで回ってるんだぜ」とある。まったくその通りである。

 

加害者の側に立つ「拡大自殺」という言葉

大学入試共通テストの試験会場である東京大学で事件が起きた。

名古屋市に住む私立高校生が、受験生の高校生ら3人を刺した。それだけでなく、最寄の地下鉄駅でぼやが起きており、それにも関与したと見られる。
エタノールを所持しており、火炎瓶を自作して使用した疑いがあるらしい。

高校生は東大を目指して勉強していたが成績が上がらず悩んでいたという。自殺を考えたが、人を殺して罪悪感を背負ったのち、切腹しようと思ったと供述しているという。

報道を通して知る限り、愚かなガキがおこした凶悪犯罪である。粛々と重罪にしてほしいと思う。理由なんて知ったことか。

本当に自殺する気だったら成就していただろう。のうのうと生きているということは自殺願望も疑わしい。

こういう事件がおきるとすぐに「社会が悪い」とマスコミが言い出すのは、事件をダシにして社会批判をすることが仕事だからであって、相変わらず深い意味はない。

気になるのはマスコミが最近使い始めた「拡大自殺」という言葉である。

大阪北新地放火殺人事件でこの言葉をはじめて見た気がする。今回の東大事件でもワイドショーなどで使われている。

この「拡大自殺」は非常に問題がある言葉だ。

「無差別に大量殺傷したのち自殺」したのであり、「拡大自殺」は加害者の「自殺」と言う行為がまず中心にあり、被害者の視点が抜け落ちている。
「無差別に大量殺傷したのち自殺」を「心中」と同義にしたいのかとも思う。

やむにやまれぬ一家心中であっても「大量殺傷したのち自殺」である。しかし似て非なるものである。

守られるべきは加害者の人権ではなく、被害者やその家族の人権である。

「拡大自殺」という言葉からは、加害者の人権ばかり守る人権思想の反道徳的な側面が見えるのである。死んだ被害者の人権は消えてなくなるのである。

 

大人になるということは

大学2年生の娘が成人を迎えた。
まあ特に問題もなく素直に育っているが、まだまだ子供だと思う。
そんな娘だが国民年金は払わなければならない。金は生まないのに金は掛かる。まあ致し方ない。

子供のころ、高校生は大人びて見えたし、大学生はもう大人だと思っていた。社会人にもなればもうオジサンやオバサンと一緒である。経済力もあり、何事も自分で決められ、社会の一員として恥ずかしくない生活をしているのだろうと考えていた。ミッキーマウスやキティちゃんは子供が愛好するものであった。

2022年4月1日から成人年齢が18歳に引き下げられるらしい。成人になれば親の親権に服さなくてよくなるし、賃貸契約やクレジットカード作成で親の同意がいらなくなる。
出来ることが増えるし権利も拡大するのだから、みんな賛成かと思えばそうでもない。

反対派は、契約でのトラブルが増えたり、クレジットカードを使いすぎてしまうなどと心配している。そして現在の消費者教育では不十分であるという。

しかしだ、今までだって消費者教育なんてなかったし、いい大人がマルチ商法に引っかかったり、クレジットカード破産をしてきたじゃないか。

いつの時代でも社会には一定数の悪しきものがある。そんなこと他者から教えられなくても自ら学べ。学ばないヤツは酷い目にあうかもしれない。それが世の中であり、それが分かるのが大人だ。

子供扱いして甘やかすと碌な事はない。成人したのなら大人扱いして「自己責任」を突きつければ良い。社会性や常識を身に付ける必要は自分で生み出しなさい。もう親の庇護はないのだ。

偉そうに言ってみたが、先日こんなことがあった。

スーパーマーケットに行ったのだが、マイバックを忘れてしまった。有料のレジ袋を購入しなければならない。
レジの店員に頼んでも良いが、レジ袋はレジの手前に束になって置いてあり、ここから客が取ることも出来る。店員に余計な手間をかけさせては申し訳ないので束から取ろうとした。これぞ大人の気遣いである。

しかしだ、指が乾燥していて上手く取れない。指先がパッサパサなのである。高校生の頃は手はベッタベタで、友達に借りたペンを返すとベッタベタで嫌がられたものである。1枚のレジ袋が上手く取れず、結局後ろの人を待たせた挙句、やっと取れたと思ったら2枚だった。店員が気づいて「1枚でいいんですよね」と言ってくれた。結局余計な手間を掛けさせてしまった。

大人になるということは手がパッサパサになることと見つけたり。
新成人のみなさん。安心して大丈夫です。こんな僕でもやってゆけますので。

「荒れる成人式」は反社と警察とマスコミによる茶番?

一部地域の成人式では数人の出席者が常軌を逸したバカ騒ぎを繰り広げ、警察が出動する。それを嬉々としてテレビのワイドショーが取り上げる。
もはや恒例行事となった感がある。会場近辺で改造バイクで暴走したり酒盛りを始めたりと、パターンは大体同じである。

川崎市の成人式では、巨大なウイングを付け屋根を取り外した改造車が乗り付け、外の広場で円を描くように暴走行為を繰り広げていた。
大勢の新成人はその危険極まりない行為を遠巻きに眺めている。その騒ぎをやや俯瞰の絶好の撮影ポイントからテレビクルーが撮影する。事前に知っていたかのように。

ひとしきり暴走したのち改造車の後輪が壊れて暴走は終了する。すると待機していた警察官たちがわらわらと現れ車を取り囲む。ここで映像は終わるのだが、その後暴走行為をしていたバカどもが逮捕されたのかどうかは伝えられない。

荒れる成人式やハロウィンの渋谷バカ騒ぎにおいて警察は大活躍である。やんちゃなヤツらを一掃する正義の味方に見えるし、存在感をアピールできる。

こういった特別警備に駆りだされれば特別手当も出るし、おまわりさんも大喜びである。つまるところ警察組織にとって「荒れる成人式」はありがたいのである。

マスコミも絶好のワイドショーネタに恵まれホクホクである。

犯罪行為をする「新成人」の顔にモザイクを掛けて「配慮」する。その輩にはインタビューもしないし「本当に新成人なのか」確認もしない。なるほど、存在感を誇示したい反社会的組織の息のかかった輩だからだ。おまけに反社会的組織と警察は持ちつ持たれつである。したがって「やんちゃ」で済ませてしまう。

「荒れる成人式」はチンピラ&警察&マスコミのコラボレーションであるとしか思えない。すべてが演出臭がして逮捕者も怪我人も死者も出ないからである。

気の毒なのは「荒れる成人式」の舞台になる地域の真っ当な新成人である。

 

 

今年一年が寅年でありますように

新年になったわけだが、特にめでたくはない。年が変わるだけである。

年末年始が休みになるのはありがたいが、テレビがバカ騒ぎし子供にお年玉を上げねばならぬ。正月飾りもしなければならないしお節料理も準備しなければならない。大人にとってはそんなに心躍るものではない。年賀状は昨年から廃止したのでその点だけは楽チンである。

1月1日から新年が始まるとしたのは明治維新以降の話で、西洋にならって太陽暦を採用したからである。古来日本では、中国暦に倣って今でいう旧正月を祝っていたのである。

もともと中国由来の文化、それが明治以降は西洋の文化になったわけで、どちらにしても輸入品である。日本古来の伝統でもなんでもない。
羽根突きやコマ回しや凧揚げなどだって、そろそろ春を迎える時期にやっていたからよかったわけで、現在のお正月に無理してやるものではない。寒いだろ。

もともと中国からの輸入品だったものを明治政府が改定し、疑うことなく日本人は受け入れているわけで、柔軟と言うか、節操がないというか。

考えてみれば4月1日を迎えるほうが大事だ。
企業の入社式や人事異動、学校では入学や進級などがあり、どう考えても4月1日の方が大事である。

4月1日を新年の始まりにしたらどうだろう。

そんな時期にまとまった休暇が出現したら、企業の人事担当者や学校関係者は泣くだろうな。いや柔軟な日本人だからすぐに慣れるかな。

そんなことを考えている程度に穏やかな新年であるが、テレビでは新型コロナウイルスのオミクロン株の感染状況を嬉々として伝えている。

いまだに「新型」とつけるのは何なんだろう。もう3年目に入るのである。もう単に「コロナウイルス」でいいじゃないか。
重症者や死者について詳しく触れないところをみると、「ただの風邪化」しているのではないかと思う。
国民の73%は本音ではそう思っている(テレパシーによる調査)。

まあアベノマスクだって、PCR検査だって、ワクチンだって、各種助成金だってみんな利権である。オミクロンと騒ぐことで利益を得る輩がいるのである。もう底が知れている。

せっかく新年になったのだから、既得権益に固執しあらぬ方向に導かんする輩を寅に退治して欲しいものである。あ、干支も輸入品か。

 

原油高に対抗だ。油田を掘ってパリ協定脱退しよう!

日本ではやっとコロナが一段落したと思ったら原油高である。ガソリンなどの燃料価格が高騰し、石油からできているビニール類などの生産に影響が出ている。電気ガス料金なども値上がりしている。産油国が増産を渋っているからである。きちんと価格に転嫁すればいいのに値上げは悪であるのでできない。デフレから脱却できない理由でもある。

ところで石油は何から出来ているのか?きちんとした答えは出ていない。

広く支持されているのは「生物由来説」である。大昔の生物や植物が長い時間をかけて化学変化して油田を形成するとされる。
もうひとつは「非生物由来説」である。石油は生物や植物から出来ているのではなく、地球の奥底から湧き出してくるものという説である。「生物由来説」は、油田の分布が生物の分布と異なることや、生物がいたはずがない超深度からも石油が出るという説明しがたい要素がある。「非生物由来説」も荒唐無稽というわけではない。

「生物由来説」の立場に立てば原料となる有機物は有限であるので「石油も有限」となる。有限であるからきちんと管理しなければならないとなる。
資源の奪い合いは戦争の原因であり格差や対立を生んできた。産油国や石油メジャーによる支配や裁定は正当化される。それは紳士面した巨大なビジネスでもある。

仮に地球の地下深くに石油が無尽蔵に存在すると証明されたらどうなるか。世界の秩序に少なくない変化を生むだろう。

昔、石油はいつか枯渇するとプロパガンダされていたなあと懐かしく思う。今思えば原子力推進の片棒を担いでいただけなのだ。原子力が活用されても石油の需要が極端に減ることはない。原産すれば価格を上げられるわけで「産油国とゆかいな仲間たち」の思いのままである。

日本には広大な海がある。ためしに二つ三つ油田掘ってみればいい。大深度まで採掘すれば出る可能性が高いし、もし油田開発に成功したらそのメリットは計り知れない。

最近は化石燃料をやめてエネルギーをシフトすることが流行している。また原子力推進かよとうんざりする。パリ協定なんか脱退してしまえ。

アメリカや石油メジャーに文句を言われるなら、いっそ国連も脱退してしまえ。むかしは失敗したが今回はうまくやればいい。
日本は化石燃料をバンバン燃やして繁栄する独立国家となるのだ。一国くらいそんな国があってもいいんじゃない。

文化は軽チャーに戻っちゃうぞ

日本国民は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」らしい。

「健康」という部分に関しては、あまり長生きしたくなく70歳くらいでポックリ逝きたいので、プチ不健康ぐらいがジャストだろうと考え日々鍛錬する身としては、余計なお世話であるとしかいえない。

さて「文化的」とは何だろう。

「文化」はいくつかの定義があるが、総じていうと「人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである」らしい。
それ以外にも「生活様式」と言う意味もある。
さらに人間と動物との違いを説明するための概念でもあるし、単に「教養」と位置付けることも出来る。

なんだか「文化的」とはに曖昧でよく分からない空気みたいなものだなあと思う。

金持ちが高級な車に乗ったり絵画を所有して悦に入ることも、庶民がコンビ二弁当に舌鼓を打つのもどちらも同等に「文化」であるといってよいのだろう。

ところがやたら「文化」と叫ぶ人は選民的である。特に「文化芸術」なんて言ったりする人達は上から目線で偉そうである。己が考える文化というものを愚かな庶民に啓蒙する気まんまんである。これは景気が悪くなると予算が減るので危機感があるからだろう。儲かっているときは静かだからだ。

「文化人」と呼ばれる人達も笑止である。「文化」は「文明」と言う意味もあるので、文化人は「文明人」と言い換えてもいい。なんか間抜けでで面白い。

かつてフジテレビのキャッチフレーズとして「軽チャー」が使われた。
軽いノリで軽薄な感じを表すことであった。バブル景気に煽られてテレビの黄金期を築いたといえる。現在では時代の仇花になってしまった。

「軽チャー」英語のカルチャー(文化)を皮肉ったものだろう。これは以外に的を射ていて、「文化」には「軽便な」「お手軽な」という意味もあるのだ。文化包丁とか、文化住宅とかそういう意味である。

文化を守れと騒ぐ人達よ。国民はそれぞれの立場で地に足を付け、それぞれの文化を守り楽しんでいるのだよ。文化と主語を大きくしないで、それぞれの名称で具体的に言いたまえ。文化を連呼することに慣れてしまうと、意味が軽くなり、「軽チャー」に戻っちゃうよ。

 

さて本題に入るとするか。
訳のわからぬことを書いているが、実はただの話の枕だ。

いつまで経ってもPVの上がらない(泣)このブログだってなあ、文化なんだぞ!
愚かな民には分からぬか!

すいません。つい本音が。いっそのこと炎上してもいいかなと思ってきたわけです。
しかしですね、これで炎上するくらいならそもそも成功しているブログなんですよね。

アメリカと中国はよく似ている

アメリカのバイデン大統領が、北京オリンピックに対する「外交的ボイコット」を検討しているという。

「外交的ボイコット」とは選手は派遣するが政府関係者を派遣しないことらしい。懸念しているのは中国の人権問題であろう。
現時点では中国に対するブラフだろうが、実際に「外交的ボイコット」に踏み切れば両国間の対立は激化するだろう。

トランプ前大統領の時は中国に対して強気な姿勢を貫いており、すわ戦争かという報道がなされていた。そして民主党バイデン大統領になれば平和になるだろうという観測があったように思う。バカなトランプに対し、温厚で大人なバイデンといった感じ。

ところがバイデン大統領になってからも米中対立は治まらず、むしろ悪化していて、もはや既定路線であるように見える。おまけにバイデンもすこしバカなんじゃないかと思えるようになってしまった。

米中衝突の原因は、両国がよく似ているからではないか。自分と同じような国は一つでいいのだ。近親憎悪による争いというか。
歴史的にも文化的にも米中はよく似ている。
アメリカは大陸の東から先住民族を虐殺しつつ領土を広げ、やがて西海岸に到達し広大な国土を手いれた。
中国も西へ下へと領土を拡張し、かつての地図とは比較にならない広大な国になっている。小学校の時の世界地図とは比較にならない大きさである。そしてその過程で行われた民族政策は人権的に人道的に大問題であり、現在進行形である。

そして両国とも臆病である。臆病だから軍備に巨額の資金を注ぎ込み我が身を守る。いつ攻撃されるかとビクビクしているのだ。

どちらも他民族国家で、格差社会であることも共通である。低福祉低負担で一部の金持ちが富を独占していることも。

アメリカが「明るい全体主義」なら、中国は「暗い全体主義」である。

アメリカで政権が変わろうが、似た者同士が衝突するのは当然であるように思える。

さて日本はその間でどうすれば良いか。アメリカの側に付くしかないかなあ。
似たものだったら少しでも明るいほうがマシだからだ。

子の国民年金手続き~日本年金機構は不親切?~

娘が20歳になったので日本年金機構から「国民年金のお知らせ」が来た。国民年金加入と保険料納付の通知である。これから月々16610円払えという。
泥棒である。寝耳に水である。青天の霹靂である。想定外である。想定しておけよ。

同封の納付書で月々払っていいし、金融機関を指定し口座振替で納付してもよい。
そして2年分前納すると割引になってお得である。払った保険料は年末調整の控除の対象にもなる。

驚いたのはクレジットカードでも払えることである。おおポイントがたまるじゃないか。ポイントの亡者である僕としてはクレジットカード一択である。

「クレジットカードで2年分前納」にしようと心に決め手続き開始。付属の冊子を見るとクレジットカード払いの場合は、ホームページをご覧下さいとある。

ホームページで確認し、必要と思われる書類をダウンロード。
「国民保険料クレジットカード納付申出書」と「国民年金クレジットカード納付に関する同意書(被保険者とカード名義人が異なる場合)」の2点である。

必要事項を記入し、同封の封筒に入れようとしてはたと気が付いた。
案内を読むと「提出書類は最寄の年金事務所に郵送するように」としか書いていないのだ。しかし同封の封筒には宛先が印刷されており、「日本年金機構東京広域事務センター行」となっている。
この封筒で送っていいのか判らない。わざわざ同封しているのだから、この封筒で送ってもいいのだろうが…。なんか信用ならない。

こんなときはとネットで調べると、同じように「封筒問題」を疑問に思っている人からの質問が沢山あって感動した。ああ同士よ。おお神よ。
結果としては同封の「日本年金機構東京広域事務センター行」の封筒で送って良いらしい。しかし、そこから各地域の年金事務所に送られるので、直接、最寄の年金事務所に郵送したほうが確実であるという意見があった。なるほどこれは天啓である。
切手代が掛かるが直接送ろう。なんか信用ならないし。

もうひとつ疑問があった、クレジットカードで2年分前納は、2022年4月から2年分の納付となる。それまでの半年間分の納付はどうなるの?これはどこにも書いていない。

しかたない、年金事務所に電話してみるかと電話に向う。きっとなかなか繋がらないのだろうなと思っていたら直ぐに繋がった。しかも平日8:30から電話受付をしている。なかなかサービスがいいじゃないか。

聞いてみるとクレジットカード納付の手続きが完了したら、4月以前の分もクレジットカードで月々払えるという。そしてそれは手続き後に送られてくる通知書で確認できるという。ただ、手続きには時間が掛かるので、今月分は納付書で払ってくださいとのこと。ハイわかりました。
その辺もホームページに記載しておいてくれると助かるっす。

日本年金機構はかつて電子入力を拒否して手書き入力で大混乱を巻き起こしたことがある。おそらくは窓口で現金で納付された保険料を着服するためである。問題になることにはその職員は定年退職しているだろうし、記録もいい加減で追跡できないようにしていた。しかも組織的に行っていたフシがあるのであいた口がふさがらない。いわゆる「消えた年金問題」である。まったく日本年金機構は前科持ちの極悪組織である。

それを考えると案内が不親切であることぐらいは瑣末な事かもしれない。それでもどこか不親切な気がするし、信用してはいけない気がしてしまうのだ。

 

「民主主義」を連呼する人は何も考えていない説

政治について語る人はやたらと「民主主義」を連呼する。
「民主主義を守れ」「民主主義の危機である」「民主主義への冒涜である」など。

日本ではこれらの定形文は主に政府与党に向けられるので、つまり単なる政権批判である。深い意味はない。政治家が使う場合は単なるお題目である。これも意味はない。

おまけに「民主主義とは何か」と問われて直ぐに答えられる人は少ないと思う。僕もよく分からない。

民主主義を象徴するのは議会制度に代表される政治システムだろう。

議会制度はおおむね少数派の意見を排除する多数決を採用しているし、その中で「少数派の意見を聞きましょう」という矛盾を認めることは大多数の容認が必要である。
したがって、重大事は多数決で決めて、些細なことは少数派の意見も聞きましょうというのが現在の主流ではないか。これが民主主義だといってもよく分からないし、そもそも単なるシステムであり、ただの手段ではないか。
おまけに議会政治が民主主義であるのなら、ナチスドイツによる独裁も日本の軍国主義も民主主義そのものである。

「みんなが幸せに暮らせるために必要なもの」というふんわりしたお花畑的解釈で民主主義を説明する人もいる。しかし、かつての王政や帝政、封建主義や共産主義だって同じ事を言っていただろう。そして重要なツールである「人権」は他者を攻撃し、争いの種になることは証明されている。

こうなってくると「民主主義」はなんだかよく分からず、まるで宗教の一種である。

いたずらに「民主主義」を否定しているわけではない。それが現在の世のありようを保持しているのであれば、おおむね妥当であると言える。しかし細かいことを指摘すれば、それが指し示すものが「システム」なのか「思想」なのか「理想」なのか、あるいは「戦略」であるのか、まったく整理できていないと思うのだ。

現在の哲学者、評論家、政治学者、社会学者、ポピュリスト、アクティビストの皆さんも同じように民主主義を正とし、それがあたりまえであるという前提で活動している。

すこし掘り下げると矛盾に突き当たるのに、アタマのいい人達はそこを見ないようにしているのかなと思う。民主主義はフランス革命から始まったと言われるが、血みどろの革命である。しかも失敗に終わっている。そういうところも無視しているように見える。

そういった方々の主張に影響され民主主義を連呼する人は、何も考えていないのだろうなと思う。民主主義礼賛の被害者である。

政治的閉塞感を感じているならば、民主主義を疑ってみるといい。神学的論争から現実の世界に戻ることができるのではないか。

大手銀行、テレビ局、新聞社、淘汰されていいんじゃない?

みずほ銀行の社長が辞める。

頻発するシステム障害の責任を取るという。報道では外為法違反になる海外送金も発覚した。それもあわせて責任を取るということらしい。

もともとは銀行は「高利貸し」で碌なものではない。バブル期には土地転がしに加担し、今ではサラ金と提携している庶民の敵である。ヤクザと変わらない。

銀行員はかつてなりたい職業の上位で羨望の的であった。それは銀行から金を借りている広告屋やマスコミの仕業である。

そろそろ大手銀行は一行くらい潰してもいいんじゃないか。公的資金の投入は最低限紙にしてね。これからは人口が劇的に増えることも大きくて経済が成長することもないのだから、幾つも銀行はいらんでしょ。

潰すだけで他と統合しないでね。めんどくさい事になっちゃうからね。

護送船団方式でピンチになっても政府が救済するイメージがあるが、あえて潰せば拍手喝采する人も多いだろう。

昭和の高度成長の名残のような産業をそのまま維持することはマイナスも多い。そろそろ一区切りつけてもいい。

テレビ局や新聞社も同じ。

テレビはどの局も芸人が喋ったり、食ったり、クイズをしたり、町を歩いたりしているだけである。NHKですらそうである。チャンネルが減っても気が付かないかもしれない。

新聞社は論外である。紙面では脱炭素と言い政府批判をしながら、大量の紙を刷り油を燃やして全国に配達している。しかもほぼ毎日である。販売数すら「押し紙」でよく分からない。

「アカが書きヤクザが売ってバカが読む」とはよく言ったもんだ。スポンサーは広告を引き払った方がよござんす。

銀行、テレビ局、新聞社、それぞれから一個ずつ潰していいのではないか。勝ち組の転落ほと大衆受けするものはないし、事業として持続可能性がなさすぎだろう。SDGs的もそのほうが良いので、当然反対はないよね。

萌え絵より生身の女性の方がエロいのだが

広告やゲームアプリのキャラクターはいわゆる「萌え絵」ばかりである。そしてそのありようが槍玉に挙げられている。

観光庁や企業からの後援をうけている地域活性化プロジェクト「温泉むすめ」もキャラクターデザインがいわゆる「萌え絵」である。そしてそのキャラ設定も含めて問題視する声が出ている。

また活動家の仁藤夢乃さんがツイッターで「性差別」で「性搾取」であると批判を展開、プロジェクトはスポンサー名が消えたり、コンテンツの修正を迫られているようだ。

相変わらず、ネット上ではお決まりの「フェミニストVS表現の自由を守るオタク」的な争いに矮小化されたプロレスが展開し、議論が深化する兆しはない。

萌え絵やアニメの女性キャラクターの描き方に関しては、単なる流行なので「性差別」だとか「性搾取」などと騒ぎ立てるのはどうかと思う。江戸時代の浮世絵だって同じだろうし、昔の男は北条政子の肖像画で欲情したかもしれないし。
しかし不思議なことだがワンピースのナミの胸は問題にしない。何がかんだか分からない。

反対派は胸のふくらみが猥褻とか太ももが肉感的であるとか批判する。表現の自由だと言えば、個人的に楽しむのはいいが公共の場にはふさわしくないと返す。たしかにTPOはあるかとは思うが。

僕は2次元キャラより生身の女性の方がエロいのですが…。これはだめですか?電車に乗っていると女性がいますよね。胸のふくらみもあるし、スカートからのぞく足がきれいだったりしますよね。エロいですよね。ちらりと見てしまいますよね。妄想が膨らみますよね。犯罪ですか?死刑ですか?

夏のビーチやプールは水着姿の女性であふれる。これなんか性差別と性搾取のフルコースではないの。なぜ女性はみずからセクシーな水着なんか着るの?罠?

あと忘れてはならないが、男性の性的な部分も差別や搾取の対象になりえるわけだがそこは触れない。

この手の運動は男性差別の一種だと思っている。要は「エロい事考えている男」を弾圧し叩いているだけである。

ただ皮肉なことは、萌え絵を作るクリエーターやファンは意外と女性が多いのである。結局「女の敵は女」である。あ、これも差別になるか。

EVシフトは原発稼動が前提なのになぜそれを言わないのか

ホンダがガソリンエンジンからの脱却を表明した。2040年までに販売する車を100%電気自動車(EV)や燃料電池車へ転換するという。いずれホンダエンジンがなくなるのかと思うと感慨深い。セナも天国で悲しんでいるだろう。

対するトヨタは社長自らハンドルを握り、推進する水素エンジン搭載車でレースなんぞしている。まわりのドライバーは社長の車にぶつけないように気を使うだろうとおもうと可哀想でならない。水素エンジンはガソリンエンジンと同じ内燃機関なので都合が良いらしい。

EUは2035年にガソリン車の販売を事実上禁止する方針であるという。ヨーロッパでは着々とEVにシフトしていると言われ、マスコミ的にはすわ産業革命かといった具合である。

かりにこの目論見どおりに事がすすんだとしても、完全な脱炭素社会が到来することはない。小型の車はEV化は可能だとしても、大型車両や船舶、航空機はまだまだ化石燃料を使用するほかない。仮に戦争にでもなったら、ガスタービンエンジンを積んだ艦艇や戦車、ジェットエンジンで飛ぶ戦闘機が大活躍するのである。化石燃料から完全に脱却することなんてできない。

EV化の良い面だけが喧伝されるが、ヨーロッパにおいてもEV化で職を失う労働者からの反発だってあるだろうし、巨額の補助金の負担だってあるはずだ。
EV化が最もすすんでいると言われているフランスは社会主義国家のような国なので、極端にEV化を進められるというメリットもある反面、そのひずみだってあるだろう。

フランスは原発大国である。使用電力の7割が原子力発電によるものである。
つまりEV化は原子力発電が前提である。

なぜ日本のメディアや原発反対派はなぜこれを批判しないのか?
日本の原発はケシカランがフランスの原発はスバラシイのか?ひどく矛盾している。
だからメディアや原発反対派は信用しない。ヨーロッパを見習ってEV化を進めよと言うなら原発を認めよ。

対する日本は7割が化石燃料を燃やす火力発電である。このままEV化を進めるとおかしなことになる。
化石燃料を使って化石燃料を運び、それを燃やして発電し、その電力を送電しバッテリーに充電して車を走らせるわけだ。絶対ロスが多い。直接化石燃料を燃やして走ったほうが簡単だし環境にもやさしい。

日本に与えられた選択肢は少ない。つまり「原発推進」か「牛車」しかない。
牛車(ぎっしゃ)って言いたかっただけです。すいません。

自動車を捨て牛に引かせりゃスローライフだし、憧れの田舎暮らしっぽいし、SNS映えすると考えたのだが、重大な問題があった。

牛は反芻するときのゲップにメタンが含まれ、これが温室効果ガスになるらしい。
だめじゃん牛車シフト。反芻しないで1回で食え。もしくはゲップを我慢しろ。

 

SNSで社会は変革するか 

最近、LGBTやフェミニズム、夫婦別姓、そして政権交代などをめぐりインターネット上で「うねり」がおきる。ハッシュタグ運動が展開され、賛成反対の意見が飛び交う。基本大手マスコミは賛成側に付く。ただしこれは商売のための偽装である。
そして選挙の結果を見ると大きな変革は起きなかった。何も変らない。結局変革を求めていたのは少数派だったのだ。
ツイッターの盛り上がりなどを受けて、勘違いしてしまった運動家も多いだろう。投票率が低いからだという向きもあるが、負け惜しみでしかない。

議会政治というのは多数決であるので、これは多数派のための制度である。裏を返せば、少数派の意見を排除するためのものである。
議会政治というものは、民主主義に資するものでもなく、理想の社会を創るためのツールでもなく、ましてや男女平等や夫婦別姓を実現する場でもない。
混乱を避け合理的に事を運ぶための、単なる「システム」である。
少数派の言うことがたとえ真理であっても排除されるわけだ。多数派にとってはそれは真理ではないからである。それを採用してしまったら混乱をきたす。
だいたいの近代国家は議会政治を採用している。そのやり方がおおむね妥当だからだ。

少数派の意見をむりやり通そうとしたら、議会政治を無視して実力行使にでるしかない。クーデターである。共産党が暴力革命に未練タラタラなのも分かる気がする。物分りのいい大人になってしまったら少数派は滅ぶしかないのだ。

変革を求めるのなら長い時間をかけ努力して多数派になるしかない。

しかし堕落したもので、最近の「アクティビスト」や「運動家」の皆様はツイッター上で社会運動や革命の真似事をしているような感じである。ある意味便利な世の中になったものだ。
とはいえ今は炎上をエンジョイしたり、仲間割れの様子をリアルタイムで実況したりしているようだ。
本気で社会の変革を求めようとしているようには見えないので、なんだかんだ日本は平和なんだなあと思う。

米山隆一&室井祐月VSフェミニスト軍団 これはティターン戦争?

買春疑惑で新潟県知事を辞任し、衆院選で当選し政界に帰ってきた「ハッピー米山」こと米山隆一が災難に巻き込まれている。

かつての買春疑惑について社会運動家のフェミニスト仁藤夢乃が、ツイッター上で批判を展開。そこに米山隆一の配偶者である室井祐月が参戦し大バトルスタート。

さらにフェミニスト界から#Kutoo運動で有名になった元グラビアアイドル石川優実、靖国神社で裸になったヌーディスト北原みのり、まんこ活動家のろくでなし子まで参加。炎上請負神大集合である。まるでギリシャ神話におけるティターン戦争のようになってきた。

ティターン戦争とは、ゼウス率いるオリンポスの神々とクロノス率いる巨神族ティターンとの10年にわたる大戦である。そういえばゼウスは女好きでその妻ヘラは嫉妬深かったな。クロノスはゼウスの父親であるので壮大な内輪もめともいえる。しかも戦争の理由もくだらない。今回の騒動と同じであると思える。

確かに米山隆一の買春行為は褒められたものではないが、事が公になった後きちんと会見し新潟県知事を辞職している。買春行為自体はそもそも犯罪ではない。
その後苛烈な批判に耐えツイッターで政治活動を展開。気に食わないやつらを成敗(ブロック)しまくり、晴れて今回の衆議院選当選である。
ちなみに僕もブロックされてます。

米山隆一は新潟県民に認められたのである。禊は済んだと言える。股間以外は真人間なのだと新潟のコメ農家は許したもうたのである。
対するフェミニスト軍団はどうも戦い方を間違えたようだ。

仁藤夢乃が「妻は夫の性欲処理機ではない」と米山隆一の配偶者室井祐月を揶揄すると思われるツイートをしてしまったのである。それが嫉妬深い妻ヘラ、ではなく室井祐月の逆鱗に触れてしまった。これはイカンでしょ。この点に関しては室井祐月の怒りはもっともである。しかもすべての「妻」を敵に回した感もある。

単に買春行為に絞って批判を展開すればよかったのだが、それだと制度や法律の問題に逃げられてしまう。何しろ米山氏は弁護士でもある。股間以外は優秀なのだ。追い込まれることを予期してフェミニズムの一般論に逃げたのではないかと思う。幅を広げれば、米山隆一VSフェミニズムの戦いに出来ると考えたのではないか。

相手が男性であればこれで戦える。男が男であること自体が罪だと普段言っている訳だから、どこからでも批判し罪をかぶせることができる。最近のフェミニズム運動は議論が目的ではなくどこまでもを男性を攻撃するだけである。

感情的な攻撃に対して米山氏は衆議院議員として冷静に論理的に対処するほかない。感情対論理ではかみ合わないが、それでいい。それがフェミニズム軍団の戦略である。

誤算は室井祐月の存在である。
「何で?」「どうして?」と反論する室井祐月に対すると、あっという間に論理破綻してしまう。一番避けなければならない感情VS感情の「女同士の戦い」に持ち込まれてしまう。そうなるとフェミニズム軍団は弱いのである。女の敵は女だからである。

こうなると室井祐月は強い。叩かれるのも叩くのも筋金入りである。フェミニスト軍団はそそくさと逃げ出すだろう。結局1番まともに見える室井祐月の1人勝ちかもしれない。米山隆一はまた買春を蒸し返され踏んだり蹴ったりである。お気の毒さま。
いずれにしても無駄な戦いといえる。

米山隆一&室井祐月もフェミニスト軍団も、大きなくくりでいえば「リベラル」であろう。まあ米山隆一は元自民党であるので「職業リベラル」だが。

そうするとこの戦いは所謂「内ゲバ」であるともいえる。

先の衆院選の結果を見ると左翼の退潮は明らかで、内ゲバなんかしている場合ではないと思うのだが。戦う相手が間違っている。

「そういえば仁藤夢乃って名前、AV女優みたいだよね」
こういうとフェミニストの皆さんは怒るんじゃないかと思う。ならば現在のフェミニズムの底の浅さを露呈するだけだし、社会の変革なんかとてもできっこない。