射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

サブスク問題 アナログ時代は音楽はタダで聴けたけど

ミュージシャンにとって音楽サブスクは儲からないらしい。
川本真琴がツイッターで音楽サブスクへの不満を吐露し話題となった。川本真琴は90年代中ごろにデビューした。ギターをかき鳴らしながらポップな曲を歌う姿をテレビで見た記憶がある。すぐに大ヒットを飛ばしたがその後の活動は良く知らない。調べてみると2000年代に入り、大手レコード会社とのメジャー契約を解消、インディーズでの活動をしているらしい。

かつてのCDがバカ売れしていた時代を知るものとして、現在の音楽業界を取り巻く現状に不満を表明した形だ。現在インディーズで活動しているので自由に発言できるのかも。よくぞ言ってくれたと思っているミュージシャンは多いだろう。

大手のレコード会社とメジャー契約しているミュージシャンは業界に対して不満を言ったり意見を表明したりできないが、しんどい状況に変わりは無い。

特にバンドは大変だろうと思う。レコーディングに金が掛かる。スタジオ代や機材代も掛かるしエンジニアの手配やプロモーションにもコストが掛かる。そのアルバム制作のコストはレコード会社が出し、CDの売り上げでペイするのであるが、そのCDが売れない。そうなると配信で安くバラ撒くしかないし、そもそも確実に売れるものしか商品化されない。

コストの回収のめどが立たないならば新曲を出すのも一苦労である。ドリカムのダチョウ倶楽部のリーダーに似ている人が、CDが売れないと嘆いていた。90年代は天下を取っていたあのドリカムがである。とんでもない時代になっている。

そこへきて南蛮渡来の音楽サブスクの襲来である。

サブスクリクションサービスで楽曲が再生されても、1曲0.1円程度しか製作者に入らないという。それではタダと変わらない。

しかし考えてみると昔はレコードかCDをカセットテープにダビングして聞いていた。クラスの誰かが流行りのミュージシャンのCDを買ったりすると、カセットを渡してダビングしてもらったものである。そのころCDラジカセは憧れのアイテムであったなあ。

カセット代は掛かるし音質は落ちるが、タダ同然で音楽はシェアされていた。でもねCDをメタルテープで録音すると結構高音質だったのよ。そしてカセットに録音する前提だったので音楽アルバムの構成もA面B面で二分されていて、そこにストーリーを感じたのです。

かつてはラジオやテレビでも流行の曲は繰り返し流され当然タダ、町の中でも音楽はあふれていた。タダで音楽は聴けたのである。実態。

音楽サブスクは音楽をシェアできた時代への回帰ともいえ、音楽を身近にしていることは間違いない。

音楽サブスクをコストの掛からないプロモーションと割り切れば悪いものではないと思う。そうなると、サブスクで聞き、そのミュージシャンのライブに行こうとか、CDを買おうとなるかが問題で、つまるところ「本物」しか残れない時代になった。そももそかつてのバンドブームから90年代のミュージシャン乱造時代が異常だったのである。

といいつつ僕は音楽サブスクリクションは好きになれない。欲しいCDは買います。なんというか月極駐車場のようなサービスは嫌いです。そしてドリカムの人の名前は中村正人でした。失礼しました。戻って直せよ。

佐野元春 ビートと警句、そして希望

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佐野元春の新しい音楽は強い印象を与えた。

インターネットで先行配信していたアルバム「ENTERTAINMENT!」と「今、何処」の2枚組を購入した。どちらのアルバムもコロナ禍から大きな影響を受け制作されている。

「ENTERTAINMENT!」の1曲目は「エンタテイメント!」、コロナ禍でボロボロになったエンタメ業界を冷静に見つめている。声高に危機を訴えたり、不満を述べたりはしない。

「誰もが堕ちてゆく あの人をみていた夜」という歌詞が強烈である。「あの人」とは誰なのだろう。

多くのロックミュージシャンはコロナ禍で政府の要請にしたがい、メッセージを伝えることを止めてしまったように思う。ならばと佐野元春は立ち上がったのかもしれない。

続く「今、何処」は、その視点を国レベルに拡大し、強いメッセージを込めつつもモダンで上品なロックンロールとして成立させている。さすがの一言である。

「今、何処」の「銀の月」はシンセのリズムを基調としていてテクノっぽいなと思ったのだが、インタビューで佐野元春は「銀の月はテクノでもある」と言っていてうれしくなった。

どちらのアルバムも強いビートと警句を散りばめたメッセージソングばかり。しかし説教臭くはなく何処までもスマートである。COYOTEバンドの演奏も素晴らしい。

そして最後は希望を感じさせる。

かつてストリートのキッズ達へ「つまらない大人になりたくない」と歌った佐野元春は、聞くものに警句と希望を与える大人になった。格好良いとしか言いようがない。

1つだけ思うのは、傑作「VISITORS」のようなロックンロールのメソッドから自由になった革新的なスタイルもあっていいのではないかと感じた。
もちろんこのご時世にバンドを背負っていることは凄いことであるが、そこから離れてもいいのかもしれない。「今、何処」で感じたテクノ風味からそんなことを思った。

叶わなかった「あたりまえの未来」~大江千里「APOLLO」~

買うか買わないか悩んでいた大江千里のシングルコレクションを購入した。
2枚組の「Senri Oe SIngles~First Decade~」である。

 

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Disc-1が1983年から1987年、Disc-2が1988年から1992年のシングル曲を収録しており、大江千里のポップな魅力が満載である。
以外だったのはシングルB面だった「mollion kiss」が入っていることで、この曲はアルバムに入っていないのでうれしい。

ひとつ不満なのは「Man on the earth」が入っていないことである。オリジナルの12インチシングル盤は聞いたことがないのである。後にベストアルバムに収録されたものはアレンジが直されているのである。うーんなぜですかね。

高校大学時代の僕は青臭くてアホで未熟であった。
そんな当時の僕に「少し大人の視点」を与えてくれたのだ大江千里の歌の世界である。
一般的には大江千里は甘いラブソングのイメージがあると思われるが、恋愛を通して俯瞰で社会を観察している「少し大人びた感覚」を提供してくれたのだなと思う。「少しでいいから背伸びして社会を見るといいよ」と言われた感じ。

1990年発売の「APOLLO」をあらためて聴く。しみじみいい曲である。

前年の1998年にベルリンの壁が崩壊、ソビエトではゴルバチョフが書記長になった。東欧革命が起き、その後ソビエトは崩壊する。

「APOLLO」が発売された1990年頃は「何かが変わり始めた時代」なのである。

「誰かが握手をしている 何かが変わり始める あたりまえの未来を あたりまえに叶えたい」

歌詞には未来への希望が託されている。彼女とケンカをしようが、つまらない日々に忙殺されようが未来は明るい。

そして大江千里が歌った「あたりまえの未来」は来たのだろうか。

その後バブルは崩壊し、大震災、オウム事件、現在ではコロナ渦、ウクライナ戦争、社会を覆う「閉塞感」。「あたりまえの未来」は叶わなかったようだ。

現在大江千里はジャズミュージシャンとしてNYで活動してる。すさまじい苦労をして長年の夢を実現したかたちだ。そのジャズへの道は大江千里にとっては「あたりまえの未来」だったのだろうな。

もちろん、あの時代に考えた「あたりまえの未来」を現在どう感じるかなんて、十人十色でいい。

 

懲りずに過去記事を貼り付け。

 

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大江千里「Senri Oe Singles」発売ですと…買おうか悩む

今一番好きなミュージシャンは平沢進、若かりしころは大江千里も好きだったという、変態的音楽趣味を持つ中年男性はわたくしです。以前も大江千里について書いたことがある。

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僕が高校生から大学生くらいのことが大江千里の絶頂期だったと思うのだが、そのころ男で大江千里が好きというのはかなりレアで、周りから理解されなかったなあ。

その頃はエピックソニーに代表される音楽文化が花盛りで、佐野元春、渡部美里、TMネットワーク、岡村靖幸などが活躍していた。大江千里はアメリカに渡りジャズに転向したが、その世代のミュージシャンはまだ現役でやっている人が多くてびっくりする。メガネ男子のベンチマークであったスマートな大江千里がなぎら健壱みたいになったのもびっくりだが。

僕の中では大江千里はキング・オブ・ポップ・ソングライターなのである。
特にピアノの弾き語り曲は至高である。恋愛の歌が多いのだが、歌詞のなかに世界を俯瞰する視点が盛り込まれることが多い。恋愛を通して現実を見ているという感じが良かったのである。

ただシンガーとしては個性的で評価に困ってしまう。ネットなんかではずばり「歌が下手」と言われてしまう。ファンとしては慣れてしまっていて、よく分からない。

ところが不思議なことに、ネット動画などで過去のライブ映像を見ると印象が違うのである。CDではへなへなした歌唱でも、ライブ映像でみると、力強く明瞭な歌声なのである。いったい何なんだ大江千里。

そして今回デビュー40周年を記念して「Senri Oe Singles」が発売される。シングル曲集である。初回生産限定版が5枚組!通常版は2枚組。
限定版の5枚目は他の歌手に提供した曲となっている。大江千里の歌唱ではないようだ。

ほとんどの曲はCDを持っているのだが、初期のころのCDは音質が悪い。特にファーストアルバムなんて酷い音質なのである。シングル曲がデジタルリマスターされBlu-spec CD2仕様で発売されるというのはなかなか魅力的である。買うとしても通常版にするかかなあ。限定版高いし。

ヒラサワ沼から一時的脱出を試み、人知れず大江千里に漬かるのもいいかなあ。春だし。どちらにしてもマニアックな楽しみなのです。うへへ。

平沢進 INTERACTIVE LIVE SHOW「ZCON」感想と例の話

平沢進が INTERACTIVE LIVE SHOW「ZCON」を開催した。
平沢進の代名詞であるストーリー仕立てになっているライブである。ここはなんとしても配信で見ないといかん。と言うわけで全3ステージを配信で鑑賞した。
事前に特設サイトが解説され世界観の説明が掲載された。しかし情報量が多すぎて3回読んだが理解できない。まあいいか。

ライブ前に公式ツイッターからお知らせが届く。
配信で参加する「在宅オーディエンス」にも「天候技師」としての作業があり、ライブのストーリー展開に参加できる。その案内である。

結果、メインPCでライブ配信、サブPCで天候技師作業場(Googleフォーム)と進捗状況(Youtube)、iphoneで公式ツイッター(指示を受け取る)と3台のデバイスを駆使してのライブ鑑賞となった。これではオタクかハッカーである。

平沢進はこういったインターネットを活用した双方向ライブを1994年からやっていた。

その頃はまだインターネットなんて一般的でもなく、せいぜいパソコン通信を一部の人達が愛好していたぐらいだろう。どうやっていたのか全く分からん。平沢進の先進性は恐ろしいものがある。やっと時代が追いつき始めたのかもしれない。

いざライブを鑑賞。ストーリーは情報過多であり、会場の観客へ与えられる選択肢は難解で、配信の天候技師は忙しすぎであったが十分に楽しめた。
ストーリーの結末は1回目はバッドエンド、2回目はややバッドエンド、3回目でグッドエンドとやや出来すぎな展開であったが、結果オーライである。

すいません。こんな書き方では分からない人には分からないですよね。ですが説明するのがとても大変なのです。堪忍してつかあさい。

肝心の音楽は、最新アルバム「BEACON」の曲が中心で構成されていた。「BEACON」は映画のようなインタラクティブライブ用に制作されたサウンドトラックアルバムだったようで親和性が抜群である。
平沢進の声も良かった。実は最近のライブを見ていて平沢進の声の衰えを感じていたのだが、杞憂であったようだ。その力強い歌声は終了後のMCからは「まだまだやれるぜ」という余裕すら感じられた。

「もう大丈夫ですよ安寧の人」という台詞もアルバムでは皮肉だと思っていたのに、ライブではやさしく穏やかな意味を帯びていた。

ライブは大成功だったと思う。次があればぜひ会場で参加したい。

 

そして今回のライブにも関わっていることなので例の話にも触れる。
平沢進と「陰謀論」についてである。

今年に入ってから平沢進がツイッターで「陰謀論」的な発言を連発しファンの間で物議を醸したのである。マスクをする人々を「奴隷」と書き、ウクライナに支援する人達を「ネオナチに募金するグロテスクな善意たち」と書いた。以前からもいわゆる「Qアノン」を匂わせる発言を度々していたこともあり、「匂わせ」くらいで済んでいたのだが、さすがにネオナチ発言の影響は大きかったようだ。古参のファンからも批判の声が上がったようだ。

今回のライブはそういった不穏な空気のもと行われた。
もしかすると今回のライブで陰謀論を盛り込んだストーリーを展開しファンを置き去りにし、これを期に音楽活動から一線を引くのではないかと僕は考えていたのである。

結果としては、SF的なストーリーに「匂わせ」以上のアブナイ要素はなかった。
正しさを押し付けてくる物を疑えと、つまり「平沢進」自体も疑えというメッセージだと思った。そうするとツイッターでの「陰謀論」発言もライブの前フリかと思いたいが、おそらくそうではないだろう。

過去にもアポロは月に行ってないとか、石油は地球由来であるとか、9.11のテロは自作自演であるとかを匂わせる楽曲を作っているからである。何を今更とも思う。

平沢進は現在の定義では陰謀論者である。本人にとっては正しい思考であっても、そう言われるのは自覚しているだろう。過去にBSPで「自分は本当に危険であるので人に安易に勧めるな」と言っていたこともあるのだし。

いつの時代でも一部のアーティストは危険な考えを持っていた。そういう尖った人達は市場原理の中で牙を抜かれ均質化矮小化してしまい、みんなフツーの人になってしまった。平沢進はそこに迎合していない絶滅危惧種のアウトサイダーとして目立つ存在になってしまったのだ。
そういうタイプは本来なら成功はしないのだが、マイナーゆえの戦略が大当たりし、ファンが増えすぎたのである。商業的な成功は悪いことではないが、注目されすぎるとキャラクターとのバランスが悪くなる。

平沢進はとっつき易く見えることもあるが常にナイフを忍ばせている危険な男だ。その危険な部分とエンターテイナーとしての部分を薄氷を踏むように渡っている。

危険な部分を見えなくすればファンは安心だろうが、そのような安易なことはせず、平沢進はこれからも危険部位をほのめかせながら活動してゆくだろう。ファンは弄ばれるし、付き合うなら相応の覚悟を持てということだろう。平沢ファンに安寧の時は来ないのだ。望むところよ。

平沢進「BEACON」の感想

CDはかつてのように売れず、音楽はネットで聴くものになった。CDは昔買ったものをまだ持っているが、パソコンに入れてあるのでCDをプレーヤーに入れることはない。

今現在、CDを買うのは平沢進だけ。

ツイッターでは陰謀論を語り、自らマスと距離を置こうとしつつ、でもフジロック出ちゃうしCDもオリコンチャートに入っちゃうという最近のヒラサワのヤバさと活躍はだんだん知られてきたところ。2019年のフジロック出演時のヒラサワをキング オブ アウトサイダーと称した評論家がいて良い表現だと感心した。

ヒラサワはアルバムを買って聴かないとイカン気がするのである。

なにやらアルバムという形態で伝えたいメッセージがあって、聞くほうもそれと向かい合わなければならないと思えるからである。まあ聴いてもよく分からんのだが。

ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のようなコンセプトアルバムは昔はよくあったが、ヒラサワのアルバムはほとんどがコンセプトアルバムである。
ヒラサワはインディーズになって長い。タイアップもなく淡々とアルバムが出るだけである。もちろんデジタル販売の先駆者でもあるので、ウエブサイトで曲ごとのダウンロードが可能なものもあるが、ヒラサワ好きはほとんどアルバム単位で購入しているのではないかと思う。

ヒラサワのアルバムにはそれぞれにテーマがありメッセージがこめられている。しかし明確に提示はされない。聴く人がご自由に解釈しなさいという感じである。

ヒラサワはツイッターのフォロワー数が多い。しかしステルスメジャーを標榜しフォロワー数が増えることを嫌がっているというひねくれ者でもある。

「TIMELINE」というのはツイッターに代表されるSNSで展開される世界線であり、それを終わらせて目覚めよということか。

なぜ終わらせないといけないのか。一部のインターネット世界は悪しき力で人間をよからぬ方向に導くものになってしまったからだろう。

アルバムの2曲目、「論理的同人の認知的別世界」(またすごいタイトル)を最初に聞いたときはびびった。途中でヒラサワの語りが入るのである。

「物語はクライマックスへ 冗談のような夜ですって? ええ、前夜ですから」

ヒラサワの曲にこういう気持ち悪い仕掛けはよくある。なぜそんなにびびったかって?聴いたのが東京オリンピックの開会式前日だったからですよ。
もちろんヒラサワがオリンピックに関心があるわけないので関係ないでしょうが。

「BEACON」は全曲通してメッセージ性が強い。カバー曲が1曲あるがこれもオリジナルの日本語詩が付いているので、まったく気が抜けないアルバムという感じである。

一聴すると過去のヒラサワ曲の中で類似するメロディーやアレンジや音色があるような気がするが、何回か聴くとそれはなくなり、過去の曲とは違う地位をすぐに確立するのが不思議である。組み合わせの上手さなんだろうか引き出しの多さなんだろうか。

しかしこのアルバムは音色もメッセージも濃すぎると思う。

ヒラサワはソロ活動とは別に核P-MODEL名義でも活動している。最近は会人という二人組とドラム奏者をいれてまた別の形態で活動している。最近出演したフジロックでもこの形である。
ヒラサワももう年だし、活動の形態を変化させつつあるのだろうか。
まずはソロと核P-MODELの融合を図ったのが、このアルバムなのではないかと思う。だとすれば濃くなるわけである。

ヒラサワのツイッターでの発言や発信するメッセージをすべて理解しているわけではないし賛同するものでもない。お茶目では済まない感じもある。なんというか正しく狂っているというか。

そしてこんなに攻めているミュージシャンは日本にはいない。世界を見てもいないんじゃないかと思う。

もちろんヒラサワは攻めているわけではなく、普通に活動しているだけなのだが。

他のミュージシャンがあまりにも戦わなくなってしまったので一人目立つ存在になったのだ。政府の要請にしたがってマスクして自粛するロックミュージシャンはいくらでもいるが。

ヒラサワが残されたキャリアで何を見せてくれるのか見届けたいと思う。こんなにヤバクて刺激的なミュージシャンに出会えたのはよかったと心底思う。

 

iTunes起動不能~幻の「時間の西方」~

音楽を聴こうと思ったらiTunesが起動しない。なにやら警告のウィンドウが出るのみ。
調べてみると、ウィンドウズ版のiTunesで不具合が起きているらしい。アップデートが原因とのことだが心当たりはない。いずれにせよiphone13の発売に合わせてAppleがやらかしたっぽい。おいおいみずほ銀行かよ。

おまけにワールドワイドに起きているらしい。iTunesが起動しないのでバックアップも取れない。iPhoneの買い替えなどに支障が出るだろう。これは結構えらいことなのではないか。トップニュースになってもいいくらいだ。この点は僕には関係ない。6Sなので。まだしばらくは6Sなので。

考えてみると、iOSやアンドロイドOS、ウインドウズにマックOSなどなど、生活の基盤といえるIT技術はすべて米国製である。

これらを止めちゃえば世界は大混乱になる。実質世界を支配しているのはアメリカではないか。アメリカの同盟国でよかったよ。万歳USA。タリバンもわがまま云ってないでアメリカに服従しなさい。

iTunesが起動しないので、ウインドウズメディアプレーヤーで音楽ファイルを再生するのでとりあえず問題ない。
あくまで個人的意見ですが、iTunesよりメディアプレーヤーのほうが音質がいい。

シャッフルで音楽をかけていたら平沢進の「時間の西方」が流れ始めた。
あれなんか変だぞ。イントロにお客さんの拍手が入っている。「時間の西方」のライブバージョンではないか。こんなバージョンは知らないぞ。

確認してみるとメディアプレーヤーで平沢進のライブアルバム「PHONON 2550 LIVE」の1曲として再生されている。あわててCDを引っ張り出したら、「PHONON 2550 LIVE」の4曲目に「時間の西方」が入っているではないか。

どうやらCDを買ってiTunesに取り込んだ際に、なんらかの手違いで「時間の西方」が消えてしまっていたようだ。その後はCDは聞くことは無く、しまいこんでいたので勝手に幻の曲になってしまったのである。

iTunesが起動不能になったおかげで幻の曲に出会えた。ありがとう!天国のジョブズ!単なる手違いだけど。ついでにiTunesとっとと直してね。
そして音楽をPCで聴くのも便利だが、CDもたまには聞きましょうと反省しました。

 

フジロックに平沢進降臨!なぜ最後は「庭師King」?

コロナ禍のためその開催に賛否が渦巻いたフジロックフェスティバルが終わった。
ありがたいことに3日間にわたるステージはYoutubeでライブ配信された。目当ての平沢進が見られたのでありがたい。

平沢進はリリースしたばかりの最新アルバム「Beacon」を引っさげ、バーコード頭の異形のサポートメンバー「会人(えじん)」の2人とドラマー・ユージレルレカワグチを従えて登場した。

1曲目が最新アルバムからカバー曲「Cold Song」であったように、2019年のフジロック出演に比べるとドライブ感を抑えめにした、「聴かせる」ライブだった。

それでも「Big Brother」「救済の技法」と畳みかけられたら、たまらない。1番良かったのは「HOLLAND ELEMENT」である。電子音がカッコいい。ワタクシ中二なので。

最近平沢進について語る際に避けて通れないのは、平沢進は陰謀論者なのではないかという問題である。
ツイッターでは独特の語彙でフォロワーを煙に巻くようんなセンスを発揮しているが、たまに怪しさを匂わせる。マスクもしないし、「コロナはインチキ」で世界中が騙されているだけだと考えている節もある。そして現在陰謀論はタブーである。

しかしだ、稀代の音楽家平沢進が、普通の人と同じ凡庸なことを考え、それを実行していたとしたら今のキャリアはない。普通から距離を置き、普通と戦ってきた人なのである。アポロは月に行っていないとか石油が有限であるなんて嘘であるとか、陰謀論的なメッセージを曲に込めてきた前科もある。

平沢進は陰謀論者です。
宗教っぽいなどとも云われるがそんなもんじゃありません。もっとヤバイのです。

思想的には危険な匂いがプンプンするのだが、楽曲的にはそのエッセンスを「匂わせる」程度に留めているバランス感覚がすばらしいと思う。

そして根底にあるのは、たとえ良からぬ陰謀に振り回されたとしても人間は最終的にはよりよい人間性を獲得するだろうし、必ず良い方向に進むだろうという肯定感である。それは陰謀論的見方を吹き飛ばす力を持っている。

フジロックのアンコール曲は「庭師King」であった。
この名曲はアルバム「救済の技法」に収録されており、誠実に仕事に打ち込む庭師の姿を壮大に歌い上げている曲である。ユーチューブにあるので気になる方は聞いてください。壮大すぎて魂消ます。

「救済の技法」というアルバムは医療や救済がテーマとなっている。

強烈なイントロから始まる「TOWN-0 PHASE-5」は精神障害者からみた現実社会、「橋大工」は出産がテーマだと思っている。

そして「庭師King」のテーマは人間の「免疫」や「自己回復機能」だと考えている。

内的、外敵に攻撃を受けても、防衛し回復してゆくことが人間に必要なのだ。その人間に内在する能力を庭師になぞらえているのだと思う。陰謀論を匂わせつつ、アフターケアも万全なのだ。

フジロックの最後にこんな曲をもってくるなんて、ヒラサワはやさしい陰謀論者なのだ。

佐野元春はつまらない大人になったのか?なぜ評価が低いのか?

NHKのSONGSに佐野元春が出演していた。佐野元春の40年来のファンという武田真一アナウンサーがインタビュアーとなり、静かに熱い佐野の現在の言葉が伝えられ、3曲演奏された。
僕も佐野元春にはまったクチである。武田真一アナの佐野に対する思いには大いに共感したし、当時を懐かしく思い出した。

僕が佐野を知ったのは高校1年の時である。
アルバイトしてを金を貯めCDラジカセ買いに秋葉原に行ったのだ。CDラジカセを買ったはいいが、CDを持っていない。レコード屋に寄りCDを買った。それが佐野元春の「カフェ・ボヘミア」だったのである。
実は佐野元春のことは良く知らなかった。当時BOOWYが大人気だったので、そんなものに興味はなく、「お、人と違うね」と言われたい気持ちがあり、ちょいと背伸びして佐野元春を手に取ったのである。なんとなく佐野を聞いていると頭よさそうに見える気がしたのだ。そして金のない高校生なので他のCDを買えず「カフェ・ボヘミア」をやたらと繰り返し聴くこととなる。
その後「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」が発売された。「カフェ・ボヘミア」を中心として過去作品に遡ったり新しい作品を手に取ったりとなかなか贅沢な体験であった。

80~90年代の佐野元春はエピックソニーの親分的存在であった。「SWEET16」「FRUITS」と傑作アルバムを出し続け、まさに黄金期であった。

しかし2000年代に入って佐野は失速したように見える。加齢による声質の変化もあり、昔の曲は歌い方を変えている。パワフルで自在なシャウトはもう聴くことはできない。
しかし楽曲やメッセージ、うねるようなバンドサウンドは聞き応え十分である。

初期の曲「ガラスのジェネレーション」で「つまらない大人にはなりたくない」と歌っていた佐野はまだまだ現在進行形の若々しいエモーションを持ったミュージシャンであり、つまらない大人にはなっていない。

なぜ現在の佐野元春は評価が低いのか。
2000年代初頭に巻き起こったCCCD(コピーコントロールCD)騒動に原因のひとつがあると考える。CCCDは大手のレコード会社が音楽CDのデジタルコピーを防ぐための規格として開発されたものだ。音質が低下する、CDプレーヤーによって不具合が生じる、パソコンへのコピーを完全には防げないなど、問題だらけの規格だった。
大手のレコード会社が見切り発車的に導入を進め、一部のミュージシャンが反対の声を上げた。佐野元春もCCCDの問題は認識していたはずである。CCCD規格のシングル盤のリリースを行ったが、その後アルバムなどは通常のCD規格であった。それについて佐野元春からの声明はなかった。レコード会社に声を上げない佐野元春に少なくないファンが失望しただろう。長年苦楽を共にしてきたレコード会社に対して気をつかったのだろうし、itunesの台頭に対する危機感は佐野も感じていただろう。

その後、CCCDをめぐりエピックレコードと関係が悪化し佐野元春は独立し独自レーベルを作る。実質インディーズになったのだ。これがCCCD問題に対する佐野の最終的な解答だと思う。

インディーズでは活動は地味になるしプロモーションも困難である。大手のレコード会社の後ろ盾がなければメディア等の評価も低くなる。もしCCCDの問題がなければ佐野元春はいまだにエピックレコードに所属し、大御所ミュージシャン然としていたかもしれない。

僕は今の佐野元春のほうが好きだ。つまらない大人じゃないから。

NHKホールに亡霊が現れた

平沢進のライブを鑑賞した。

新型コロナの感染防止のため無観客での配信となり、価格は3300円であった。

もともと平沢進はiTunes登場前に独自にmp3での音楽配信を始め、インターネットと連動したインタラクティブライブを行うなど先進的な取り組みが評価されてきた音楽家である。一部に熱狂的なファンがおりキャリアも長い。しかし一般的には知られていない。

80年代の邦楽を中心に、浅くはあるが幅広く音楽を聞いてきたと、ささやかな自負をもっていた僕でも、平沢の存在をしったのは5年くらい前である。

なせ知られていないかというと大手のレコード会社と契約せず、JASRACと距離を保っているアウトサイダーだからである。

かつて自分の曲をリメイクしアルバムに再収録するためにJASRACに使用料を払わなければならないことに疑問を感じ、それをきっかけにJASRACとの契約を見直したという。大手のレコード会社に所属していると、アルバムのレコーディングを終えると契約書を交わす。その契約書は音楽出版社やJASRACとの包括契約となっているのだ。ミュージシャンに選択の余地はない。レコーディングの費用やプロモーション、コンサートのブッキングなどレコード会社に依存しているからである。

JASRACと契約したくないのなら大手のレコード会社からも出なければならないのである。

当時平沢進はP-MODELというバンドをやっており大手レコード会社からの脱退、そして独自の音楽配信の開始をするにあたり記者会見を開いたのだが、大手や音楽関係のメディアは来ず、来たのはパソコン関係のメディアだけだったという。JASRACの圧力があったのではないかと思う。

 そして平沢は昨年のフジロックに参加しセンセーションを巻き起こす。大手メディアは見事にスルーしたがネットを中心に注目された。ややマンネリ化したロックミュージックより、平沢のマッドサイエンティストのようなパフォーマンスのほうが、ロックっぽい反骨心が感じられて面白かった。

さて肝心のライブであるが、昨年からのツアーを踏襲したスタイルであった。テスラコイル、レーザーハープ、両脇にバーコード頭の会人など。普通に考えると頭おかしいのであるが、慣れてしまってなんとも思わない僕も頭おかしい。

そこに無観客ならではの演出も組み込んでいた。客席で鑑賞している平沢と会人の2人の映像がライブ中に唐突に差し込まれるのである。

最後の曲「QUIT」が終わるといったん平沢は引っ込み暗転。明転するとチェーンソーを手にしている!「現象の花の秘密」に合わせて後方の舞台セットの幕をチェーンソーで切り裂き始める平沢。何をしているのか。曲が終わると平沢と会人が舞台前にそろっておじきする。

すると無人の客席にプロジェクターで歓声をあげる大観衆が現れ、あろうことか平沢と会人は客席に降りて映像の観客と触れ合ってそのまま退場していくのである。

何が起きたのか分からずポカンとしてしまった。普段平沢は客席におりてファンサービスなんて絶対しない男である。

ライブのタイトルは「GHOST  VENUE」で「亡霊の会場」という意味になる。

舞台上で演奏していた平沢と会人は亡霊で、最後に切り裂いた幕から召喚した観客も亡霊で、実態のある本物は客席で鑑賞していた平沢と会人のみ。通信回線の向こうにいるファンの思いは亡霊となりライブに参加したのである。その亡霊同士が最後に客席で触れ合う「濃厚接触」をするという皮肉。

コロナによる無観客配信だからこそ込められるメッセージ性。通常ライブの代替行為としての無観客配信ではない。ずっと前から信じられないくらいの先進性のあった平沢進にとってはたいしたことではなく、予定されていた未来なのかもしれない。

 

さて画面の表示を見ると7万5千人が視聴していた。アーカイブでも鑑賞できるので、ライブ視聴しなかった人も入れると八万人くらいがチケットを購入したのはないか。単純計算すると通常のライブより売り上げが高いはずだ。

配信ライブは通常ライブの代替行為ではなく、主流となり得るかもしれない。

これからコロナと共存していくあろう音楽ライブはこれからどうすべきなのかを見事に示した平沢進のライブであった。