射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

紅白面白かった!しかし平成はどこいった?

なんだかんだ言って観てしまうNHK紅白歌合戦。いやー面白かった。

特に後半の星野源、米津玄師、ユーミン、そして最後を飾るサザンは素晴らしかった。ジャニーズやAKB系の「口パク集団盆踊り」を完全に脇役に押しやるパフォーマンスであった。

星野源の曲名どおりアイデア満載のパフォーマンスをなにもカットしなかったのも、中継とはいえ米津玄師を引っ張りだしたのも良かった。

ユーミンが1曲目歌唱後にそのままステージに現れたときは驚いた。スタジオ収録で済ますのかと思っていたからだ。そして歌の上手下手なんぞ関係ないオーラがあった。やはりスターだ。

最後に登場したのはサザンだ。原由子が「希望の轍」のピアノのイントロを弾いたときは、鳥肌が立った。締めの「勝手にシンドバッド」は最後を飾るにふさわしいライブ感とお祭り感があった。

個人的に良い選曲だと思ったのは松田聖子のメドレーである。「風立ちぬ」「ハートのイアリング」「天国のキッス」「渚のバルコニー」だ。大瀧詠一、Holland Rose(佐野元春)、細野晴臣、呉田軽穂(松任谷由実)が作曲し、作詞は全て松本隆である。80年代の松田聖子の代表曲だ。ニューミュージック系のアーティストがアイドルに曲を提供し始め、松田聖子は音楽界の寵児だった。この選曲はなんだかうれしい。わがままを言えば大村雅朗作曲「SWEET MEMORIES」があればもっと良かった。

大瀧詠一が亡くなったのは2013年の大晦日である。大掃除をしながらラジオを聞いていたら、急にラジオ局が「君は天然色」を流し始めた。なんだろうと思ったら大瀧詠一の訃報が流れて衝撃を受けたことを思い出す。だいぶ経ってしまったが紅白で大瀧詠一の追悼ができたような気がする。

悲しいのは演歌陣である。必ず何かのパフォーマンスと抱き合わせになっていて完全におまけ扱いである。けん玉は面白かったし、北島三郎がさすがの存在感であったが、演歌界の落ちぶれ感が半端ない。どんなに上手くても今だに「天城越え」じゃあダメだ。

気になったのは「平成最後の紅白」と銘打っていたのに平成感があまり無かったことである。なにしろ大トリが昭和の「勝手にシンドバッド」である。あえて言えばサザンもユーミンも昭和を象徴している。星野源や三浦大知も、マイケルジャクソンなどの80年代の影響を受けた昭和の申し子ではないか。

紅白は有名歌手や有力歌手が活動のご褒美として出場するもので、その予定調和を文句を言いながら楽しむものと考えてきたが、平成最後の紅白はきちんと「音楽の祭り」になっていた。

しかし悲しいかな平成を代表する小室サウンドやビーイング系のポップスやロックは影も形もなく、平成最後の紅白はかえって「昭和」を感じさせるものだった。

平沢進を知っていますか?

今敏監督のアニメ映画「パプリカ」を観た。10年以上前の映画なので多少古さは感じるが、素晴らしく面白い映画だった。
特に音楽が素晴らしかった。伸びやかなボーカルの主題歌に印象的な劇伴。クレジットには「音楽 平沢進」と記されているが……誰ですか?

調べてみると、P-MODELというテクノポップバンドを率い80年代から活躍するベテラン音楽家と分かる。インターネットを駆使した先進的な「インタラクティブライブ」を開催したり、ソーラー発電による電力のみでアルバム製作&ライブをしたり、タイのニューハーフ(平沢進はSP-2と称している)に影響を受け音楽制作したり、JASRACのやり方に疑問を持ち大手レコード会社から撤退、いち早くインターネットによる楽曲配信を始めたり……。しかもオフィシャルウエブサイトではパプリカの主題歌「白虎野の娘」など多数のの楽曲が無料配信しているではないか!20年時代を先行し、追いつくひとはいない。

こんなすごい人がいたのか…?似ている人がまったくいない。しかもツンデレキャラでツイッターやってる!自称は「ステルス」だ!

そこからCDを集めパソコンに流し込みiphoneのライブラリは平沢進であふれ、通勤時間は平沢進を聴くための時間になった。
アルバム1枚ごとにリスナーに媚びない難解で奥深いテーマがあり、変幻自在のボーカル、刺激的な打ち込みサウンド、哲学、宗教、科学に裏打ちされた深い歌詞などに打ちのめされる。その世界観の、地球を外から俯瞰して眺めているような視点が絶妙だ。そして共通する「いかがわしさ」「気持ち悪い感じ」がたまらない。その音楽は脳細胞に直接届いているような気さえする。

先日ソロプロジェクト「核P-MODEL」名義でアルバム「回=回」が出た。ライブはユーチューブで配信された。
平沢進は荒い配信画像の中にいた。ほんとにいるんだ。

平沢進はJASRACと距離を置いているせいか一般的な知名度は低い。筒井康隆の「パプリカ」を読んでいなければ、一生知らずにいただろう。
40代も半ばにさしかかり、こんな出会いがあるとは思わなかった。

大江千里を再評価したい

大江千里。そのイメージはどんなものだろうか。エピックソニーの若手スターで、草食系男子のパイオニアで、バブル期のあだ花的シンガーソングライターといったところか。大学生活を舞台としたおしゃれなラブソングのイメージがあり、男ユーミンと呼ばれていた。俳優やったり本を書いたりもしたマルチタレントでもあった。そして硬派なロック好きからは嫌われていた。

中学生のときに大江千里を初めて聞いた。その第一印象は、ポップなラブソングを、おかあさんといっしょのキャラクター「ポロリ」みたいな声で歌う変な歌手。しかし聞くうちに取り憑かれるように好きになっていったのである。
なにが良かったのかというと詞が良かった。
「AVEC」という曲がある。歌詞を少し引用させて頂きます。

永い科学の迷いに身をくずした戦士かぼくたちは
ゆるめた蛇口 ケチャップのしみ きみと争ういくつかよ
リビアで午後はじまった戦争は争いじゃなく
隔たりじゃないよりそえぬ無邪気さのせい

現代人の苦悩や世界のありようと彼女との関係を同等に描写している。個人的なことと世界がつながっているのだ。そしてサビはこうだ。

生活と言う焦燥を人は皆捨てていくの
贅沢な80年代よ 愛する人をくじかせない

恋愛の悩みと時代への警告がごちゃまぜになっていて、自分たちを取り巻く状況を文学的に描き出す。平和なバブル景気に踊り、大切なものと向き合えず、理解し合えず、そしてそこから逃げているという葛藤も見える。プロパガンダ的言葉と日常の風景が奇妙に同居している。すばらしい歌詞だと思う。
そして東日本大震災で原発事故が起きた時「永い科学の迷いに身をくずした戦士かぼくたちは」と言う歌詞は心に染みた。おまけに同時期にリビアでも内戦があったのだ。

「愛するということ」の歌詞も引用させて頂きます。

自由なんていらない 平和なんていらない
きみがそばにいればいい きみが全てになればいい
きみはもっと激しく絶望しろ
自由なんていらない 破片だけがあればいい
苦しくはかないほどの きみが全てであればいい

この詞を、たたきつけるようなアレンジで歌う大江千里には狂気を感じる。しかもこの曲の入ったアルバムのタイトルは「乳房」である。そしてこのアルバムは、時代のせいか音がくすんでいて、異様な迫力がある。これはユーミンではなく、中島みゆきである。僕は、バブルに浮かれず苦悩し続ける世界観にに大人の姿を感じたのだ。背伸びして。

大江千里は大学生のとき、トニオクレーガーというバンドを率い神戸のライブハウスで活躍していた。その時の映像が最近ユーチューブにアップされている。視聴して驚いた。そこにはまったくイメージが違う大江千里がいる。完成度の高いバンドサウンドで歌い方も力強い。そこで注目され大型新人としてデビューする訳だが、コピーライターだった林真理子が考えたファーストアルバムのキャッチコピーは「私の王子様、スーパースターがコトン」である。西郷どんもびっくりでごわす。こりゃトホホだ。しかもこのコピー間違えて「玉子様」と誤記されたと聞いたことがある。本当ならますますトホホだ。
 
大江千里のパブリックイメージはレコード会社によって作られた。エピックソニーは戦略を間違えたような気がするし、のちに大江千里もイメージを変えようと苦労していたように思う。ただ、メガネをかけた文系男子ポップスターのインパクトは相当のものだったし、後に続くミュージシャンに大きな影響を与えたと思う。

大江千里はオリコンで1位を取ったことがない。91年キャリアの絶頂期に「格好悪いふられ方」を出したとき周囲も1位が取れると期待したらしい。しかしそれを阻んだのが槇原敬之の「どんなときも」だ。
槇原敬之は大江千里の大ファンで後に名曲「Rain」をカバーしている。これがひとつの区切りとなり、時代が引き継がれたように思う。

今、大江千里は日本を離れジャズピアニストとしてアメリカで活動し、華やかな表舞台からは一旦退いた。もう歌うこともないだろう。しかしたくさんの名曲をファンだけで懐かしむのはもったいない。多くのミュージシャンにカバーしてほしいとも思う。

「APOLLO」とか「ビルボード」なんかいかがでしょう。

ルーツミュージック万歳

星野源が人気だ。昨年「恋」が大ヒットし、ドラえもんやNHK朝ドラの主題歌も担当した。音楽活動のほか役者としてコント番組に出演したり本を書いたり、マルチに活躍している。本業の音楽は70~80年代のソウルミュージックやポップスの影響を受けているようだ。「SUN」はマイケルジャクソンに捧げる曲だ。

80年代の日本のポップミュージックを浴びるように聞いて育った世代には、星野源の人気はうれしく感じられる。

80年代のミュージシャンは洋楽の影響を大いに受けている。大瀧詠一はフィルスペクターサウンド、山下達郎はブライアン・ウイルソンやビーチボーイズ、佐野元春はブルース・スプリングスティーンやスタイルカウンシル、渡辺美里はジャニス・ジョプリンなどなど。伊藤銀次の「Lucy in the Sky with Diamonds」のカバーをオリジナル曲だと思ってしばらく聞いてた。とても恥ずかしい。だがそれをきっかけにビートルズの「Sgt Pepper's Lonely Hearts Club Band」を知り、大好きなアルバムになった。1人のミュージシャンを知るとそのルーツをたどることになる。

大瀧詠一の初期のアルバムでベースを弾いているのは、星野源を見出しデビューさせる細野晴臣である。縦横のこんな繋がりがうれしい。

音楽業界は85年にブレイクするBOΦWYによって様変わりしたように思う。完結しちゃったのだ。これを聞けば大丈夫、後はなにもいらない状態になってしまったのだ。ヴィジュアル系ルックス、カッコいいロックサウンド、若者向けの歌詞、中学生だった僕の周りはBOOWYファンばかりになった。そんな中で大江千里とか佐野元春のカセットを聞きまくっていた僕は変わり者だったのか、はい変わり者です。

BOOWYの登場でニッポンの「歌謡ロック」は完成し、そこから90年代のより商業色の強まったビーイング系ミュージシャンに繋がっていくように思う。ごめんなさいよ、おっさんのつぶやきでした。

今、音楽業界はどうだろうか。CDが売れなくなり景気のいい話は聞かない。みんなが知るヒット曲は生まれないが、PCで音楽作成や流通までローコストで出来る。なんとCDが家で作れる。インターネット上にあふれるボカロ曲やオリジナル曲は人気でYouYubeが主戦場だ。音楽は昔より身近なものになったように思う。一方、80年代に活躍していたミュージシャンのの多くが現役で、精力的にライブをしている人もいる。そこでタイムマシンで過去に行き、中学生の僕に教えてあげたい。

「ユーミンまだ歌ってるよ」

平沢進「Virtual Rabbit」と高畑勲「かぐや姫の物語」

平沢進に「Virtual Rabbit」というアルバムがある。1991年発売のソロ3作目である。モチーフは「ヴァーチュアルラビット」とした「月のうさぎ」で、アポロ計画などの科学技術により、おとぎ話や神話が失われていく様を表現している。アメリカに対するかつての羨望と、世界を軍事力や科学技術で支配し歴史や価値観まで変えてしまう、そのやり方への批判が込められている。

その中に「死のない男」という曲がある。「科学の発達で不死となった男の悲しみ」がテーマと思っていた。しかし、月のうさぎが搗いているのは餅ではなく、不老長寿の仙薬であるという言い伝えがあると知り考えが変わった。

「死のない男」は宇宙飛行士で、月に行ったがために不死になってしまたのだ。神話や言い伝えの世界に土足で踏み込んだ罰を受けた。アポロ計画で月に行った宇宙飛行士が帰還後、宗教にのめり込んだり、精神異常を起こしたりした事実をほのめかしているのかもしれない。

宇宙とか、深海とか、地球の深部とか、科学の力で知りすぎないほうがいいのだ。

もう一つ、月のうさぎは不老長寿の仙薬を搗いていると知り考えを改めた映画がある。

高畑勲監督の「かぐや姫の物語」だ。

「かぐや姫の物語」は竹取物語という日本が誇るSFファンタジーを「女の生きづらさ」や「男はバカだねえ」といった現代的なテーマにまとめた、つらならい作品と思っていた。

だが見方が変わった。 月の住人は不老不死で万能で清廉な、神のような存在なのだ。かぐや姫も不老不死だ。かぐや姫を迎えに来る雲に乗った一団は感情がない。死なないのだから生に執着して怒ったり泣いたり感動したりせず生きている。不老不死はある意味死んでいるのかもしれない。死後の世界だ。

対する地上の人間は欲にまみれた穢れた存在で、逃れられない「死」を前にしてみっともなく足掻いているの。そのかわり感情が豊かであたたかく、不器用ながら生を謳歌している。

「かぐや姫の物語」は、地上に降ろされたかぐや姫を通して、不老不死の世界と対比させることで、人間の営みの素晴らしさを浮き彫りにする「人間讃歌」なのだ。そうするとかぐや姫に求婚する男どもの行動や、御門のアゴや捨丸も愛おしく見えてくる。

もう一度借りて観ようと思う。