電車の中で携帯電話に向かって話している声が聞こえると不快な気分になる、でも人と人との会話が聞こえてきてもあまり不快ではない。夜道でハンズフリー通話をしている人とすれ違うときも少し怖いが、複数の人たちの声ならなんとも思わない。
それはなぜか。独り言がある種の知的障害者を思わせるからだ。不気味につぶやき行動が予想できず会話が成り立たず何をされるかわからないと思わせるからだ。これは人間の防衛本能かもしれないし、差別といえば差別かもしれない。
パラリンピック選手は体の一部が欠損したり、運動機能の低下や麻痺がある身体障害者だ。生活するだけでも大変だし、健常者にはわからない困難に立ち向かい、苦労を重ね競技に打ち込み結果を出してきた人たちだ。もちろん尊敬するし、敬意を払いたいと思う。だが知的な異常はない。健全な社会の実現のためにパラリンピックという活躍の場を与えられた、キレイな障害者である。
重度の知的障害者はパラリンピックに出ることもできないし、社会の表舞台に出ることはない。パラリンピックが話題になるたび、重度の知的障害者は社会の隅に追いやられているような気がする。そしてみんな見ない振りをしている。
パラリンピックに重度の知的障害者を出場させてみればいい。 差別のない明るい社会なんで嘘っぱちだと多くの人が気付くだろう。
呉智英は「差別のない暗い社会より、差別のある明るい社会」と言っている。名言だと思う。人間から根源的に差別はなくならない。それを認めない社会はインチキでしかない。