ドラフトの目玉で中日ドラゴンズに入団が決まった大阪桐蔭高校の根尾選手は読書家らしい。お父さんが勧める沢山の本を読破しているそうだ。その中には渋沢栄一の「論語と算盤」があるという。
ラジオを聞いていたら「国際ジャーナリスト」の肩書きを持つ人が、会社経営者じゃあるまいしなぜ野球選手が論語を読むのか分からないと不思議がっていた。中田英寿も読んでいたとも言っていた。サッカー選手が読んでいたのなら野球選手だっておかしくないはずだが、どうも根尾選手も引退したら会社経営でも目指しているのではとチクリと言いたかったようだ。
たしかに「論語と算盤」には道徳と経済の両立が書かれているが、論語自体はそういうものではない。この「国際ジャーナリスト」とされる人物は、論語自体を会社のシャチョーさんとか重役が読むハウツー、自己啓発、ビジネス用途の本だと思っているようだ。僕はインテリでもないし何の専門家でもない。三流大学中退の安月給のサラリーマンだ。高いのは尿酸値くらいだ。普段は浅く広く本を読む程度である。墓には「ただの凡人」と刻んでもらってもいい。思想哲学なんてつまみ食い程度も知らない。だが論語が単なるシャチョーさん向けビジネス本ではないことぐらいは分かる。
呉智英の「現代人の論語」では、論語を理解したつもりで理解の足りない専門家が論語像を広めていると指摘している。呉智英はゆえに「論語は読まれざる古典である」という。論語の有名な一節がある。
子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず 。
「穏やかな人生のお手本」といった解釈をされているが実際は違う。孔子の晩年は、諸国をさまよい、息子は死に、まったく報われないものだった。五十にして知るのは天命の不条理であり、七十にして諦観を得たということだ。
そして最愛の弟子を殺された時に言ったとされる言葉はこうである。
顔淵死す。子曰わく、
ああ、天、予を喪ぼせり(われをほろぼせり)天、予を喪ぼせり(われをほろぼせり)。
孔子の絶望の叫びが伝わってくる。弟子に囲まれ優雅にお茶でも飲みながら語っているイメージではない。呉智英は、論語を格言集と捉えるような通俗的な解釈では理解したことにはならないと教えてくれる。
評論家とかジャーナリストとか名乗る方々の見識は一旦疑ったほうがよさそうだ。
今はインターネットの普及で、専門知識や経験は及ばずとも、一般人が「ある程度の一定の見識」を持つことができる。専門家をさほど必要としなくなったのだ。仕事が減るので、彼らがそれを認めることはないだろうが。