空転日記

はばかりながら はばかる

人権の反対語は道徳だ

「人権派弁護士」「人権派ジャーナリスト」などと自称したり他称されたりする輩はどうにも胡散臭い。だいたい人権という概念がよく分からない。

人間関係は対立を生む。そこに人権を主張する者が現れると、一方の人権の正当性ばかりをを主張しだす。それは対立する相手の人権を貶める作業である。人権屋は相手方の人権を認めない差別主義者なのである。

人権という概念は最近できたものだ。群れで生きる人間が他人を尊重したり思いやったりするのは本能的な知恵である。それをあえて「人権」という言葉にし概念にすると、ある種のイデオロギーを帯びて変質する。人間であることの普遍的原理などというが、使う側の都合でどうにでも解釈できる概念である。そして生物としての人間が持つ、それこそ普遍的な本能や自由な思考を封じ込めることさえある。人権屋はおおむね独善的で傲慢な態度をとる。異議を申したてる者の人権は認めない。人権思想が行き着く先はファシズムだ。

人権思想が生む差別主義に対抗するものはなにか?それは道徳だ。それぞれの人間社会で長く培われてきた知恵である。

日本には村八分という慣習があったが、残りの二分はなにか。火事と葬式である。どんな悪人であっても火事と葬式は村のみんなで協力したのである。人権という概念が生まれる前から、このような慣習があったのは道徳的な価値観があったからである。

長い歴史や生活習慣から生まれてきた知恵が「道徳」で、新しい思想的イデオロギーなのが「人権」である。同じように人間を律するものでありながら、反対語と言っていいのではないか。

学校の道徳教育に反対する人たちは大体が人権屋だ。とはいえ国家や役所が作る道徳教育に賛否があるのは当然で、そんなものは日常生活や家庭で教え身に付けていくものだからだ。しかし反対派は教育内容ではなく道徳そのものに反対している。人権思想と道徳は相反する部分があるからだ。

最近では、そういった人権屋の行動言動は左翼的とみなされるようになり、肩身が狭くなってきたようだ。そこで人権屋は「人権」を「多様性」と言い換えることを思いついたようだ。多様性を尊重し押し付けであると道徳を否定する。

「護憲」という言葉の印象が悪くなり「立憲」と言い換えるようになったが、中身は何も変わらない。それと同じである。