空転日記

はばかりながら はばかる

普通選挙は正しいのか

今年は統一地方選挙と参議院選挙が行われる。選挙イヤーである。加えて衆議院を解散し衆参同日選を行うのではとマスコミは報じている。政権に批判的なメディアは同日選について解散権の私物化などと言って牽制している。7年目に入った安倍政権は問題はあるが、なんだかんだと安定している。野党の体たらくを考えると反政権のメディアは衆院選まで行いたくはないだろう。

安倍一強の弊害や政権に対する「飽き」などが指摘されているが、選挙になれば多少議席を減らしても安定政権を維持するだろう。野党はもはや野党としての体すらなしていないからだ。

おそらく参院選の投票率は低いのではないか。メディアは低い投票率をけしからんと嘆くだろうが、そうは思わない。

投票率が低いのは国家の運営がある程度安定しているからだ。投票に行かない人の多くは、消極的であってもに現状を肯定し追認しているだろうし、無関心も一つの意思表示だ。

それにマスコミが行う世論調査は数万のサンプルから大多数の意見を導き出す。それでいいのであれば投票率は10パーセントもあれば十分ではないか。投票率が異常に高くなるとすれば戦争前夜だ。

「安倍政権は気にくわないけれど野党には任せられない。選挙してもなにも変わらない。じゃあ行っても意味ないな」と考え選挙に行かない、というのは正しい判断だと思う。休みの日にわざわざ時間を作って選挙に行くのは労力を使う。その結果なにも変わらず結果にさほど問題を感じないのであれば、無駄な行動である。

投票先を決めかねて、あえて白紙で出す人がいる。投票権を行使するためにそのようにするのだろうが無駄な自己満足である。棄権したことと変わりはない。

若干の例外を除き全ての成人が選挙権を行使できる「普通選挙」のせいで投票行動の価値がなくなったのだ。選挙権はかつて特権階級しか行使できなかった。それを低所得者や女性にも行使できるように闘い勝ち取ってきた事に大きな価値がある。そのせいで普通選挙の悪い面に目がいかない。

よく夫婦間であっても、誰に投票したのか明かさないのがマナーと考える人がいる。選挙は世の中を動かす公的な行為なのに、家族にも言えない私的な行為と考えるのはおかしい。「個人が持つ公的な権利」が「個人が持つ個人的な権利」になってしまっている。選挙権の公的な意味も薄れたのである。

選挙に金がかかるのは、たくさんの有権者に支持を訴える必要があるからだ。インターネットを活用し、やかましい街宣カーや駅前の演説などやめてほしいが、ITに弱い人たちもまだ大勢いる。ネットで政策を訴えてもスマホを使えない老人には届かない。

普通選挙にも悪い面がある。制限選挙にしたらどうなるだろう。選挙権が要らないというひとは税金を安くする。そして犯罪歴のある人、税金を滞納している人には選挙権は与えない。選挙権を保有する人は、きちんと公的義務を果たしている人に限っていい。義務を放棄しても行使できるなら選挙権にたいした価値はない。一つの考えとして制限選挙はアリだと思う。