射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

東大安田講堂事件から50年、クソガキはそのままクソジジイに

東大安田講堂事件から50年経つらしい。報道バラエティ番組を見ていたら、当時安田講堂に立てこもった元学生らが事件を振り返り証言していた。彼ら元クソガキはクソジジイであった。なぜあんな行動に至ったのかという問いに対し、「権力や権威に立ち向かうため」とか「動かない大衆に対する怒り」などと言う。

今も昔も東京大学は権力と権威の象徴である。東大生はその権勢のおこぼれを欲して、自ら望んでその門をくぐったのではないのか?それが大学の運営に不満を感じ不法行動に訴える。これはガキの理屈である。

大衆に対する怒り?当時の大学進学率は低い。当時も大学生なんぞは頭でっかちの特権階級の青二才である。そんな奴らが、額に汗して働き生活し不平不満も言わず社会を支えている大衆を見下しているのである。クソガキどもが大学で青臭い運動に興じていられたのも実直な大衆の献身が社会を支えていたからだ。似非インテリの傲慢な選民意識である。

安田講堂事件は全共闘や新左翼などの過激派が主導して行われた。その後、浅間山荘事件やよど号ハイジャック事件などが続くことになる。そういう話になるとクソジジイどもは口が重くなり「僕はノンセクトだったから、ゲバ棒やヘルメットなんかはファションだった」などという。若い奴らはバカで流行に流されやすいから、そう言えば共感してもらえると考えているんだろう。

しかし機動隊との攻防は火炎瓶を投げつけ硫酸や塩酸なども使用した大犯罪行為である。共感なんかするはずがない。ただ流されただけいうのは犯罪に手を染めたオウム信者の言い訳と同じである。

そしてクソジジイどもは全く総括も自己批判もしない。誰であっても自らの行いを振り返り、問題があれば反省するが、彼らはしない。これでは大衆以下の高等愚民だ。

しかも当時犯罪者として裁かれなかったのは、まだ子供だからと甘やかされたからである。恥ずべきことである。それを「あのころは政治の季節だった」などと価値があったかのように言うだけでなく、あげく「いまどきの若者は覇気がない」と社会批判をするのだから始末に負えない。実は今だに社会から子供扱いされていることにすら気づいていない。クソジジイどもは今までボーッと生きてきたのだろう。

平成も終わりクソジジイどもは社会からいなくなってゆく。良いことだ。世の中の様々なことがすっきりしてゆく気がする。