射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

未来のミライ~物語とポスト宮崎の重圧と~

細田守監督作品「未来のミライ」がアメリカでアニー賞の長編インディペンデント作品賞を受賞した。アカデミー賞の長編アニメ賞にもノミネートされている。

 

「未来のミライ」は公開直後に娘と一緒に観にいった。アニメに関しては素人だが、感想を書いてみようと思う。

 

細田守監督作品は「時をかける少女」「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」を観ている。全作品に共通するのは登場人物の薄っぺらさである。まったく共感できない。登場人物の設定や性格は商業アニメ的な需要と供給から生み出されたものに見える。エンタメ作品なら深みのないキャラでもいいかもしれない。しかし単なるエンタメではなく「個人的な作家性」が反映された作品を目指すのであれば、弱い。

 

その特徴は「未来のミライ」にも引き継がれている。主人公くんちゃんは、「典型的なワガママな幼児」として描かれている。作品中まったく成長しないように見える。共働きのお父さんもお母さんは子育てや家事の分担に苦悩しているが、日常生活を描写すればするほど、かえって日常生活のにおいはせず生活感から離れていく。「未来のミライ」は登場人物の外側のキャラ設定や居住する世界までは作ったのだが、そこで紡がれる「物語」が作れず、キャラクターが動き出すことがなく、結果的にオムニバス的で私小説的な作品になったようにも見える。長編アニメに求められるであろう魅力的なキャラや物語を捨てちゃったのだ。そのおかげで、ある家族を俯瞰で描写しつつ、なんでもありの不思議世界になった。

 

「サマーウォーズ」が大ヒットして細田守は「ポスト宮崎駿」と言われるようになった。かなりの重圧を背負って疲れちゃったんじゃないか。

 

最近の作品は、アニメを通して現代社会や「アニメ業界」までも皮肉っているように見える。いかにもアニメ的な「演じている」キャラクター、人間が簡単に異世界に触れる描写、リアリティのない人間関係。そして「物語」の欠如。くんちゃんがケモノ化するシーンは、セルフパロディにしか見えないやっつけ感がある。

 

求められるのは宮崎アニメ的な大長編である。後期の宮崎アニメだってなんだかよく分からない個人的作家性によって作られ商業的に失敗しているものも多い。それを日本テレビをはじめとするマスメディアがバックアップしてきたから「成功」したかに見えるのである。そんな幻影を追えというのは酷であるし、何をどうやっても同じ道を進んでしまう。フィクションはみんなそうで小説も実写映画も演劇も行き詰っているように見える。なぜかって現実に起きていることのほうが現実的でないんだもの。

 

もう幅広い世代がこぞって観たがる作品をつくることはできないのである。

 

「未来のミライ」はアニメ業界やマスメディアによって、「ポスト宮崎」だの「国民的アニメ監督」と勝手に期待され行き詰まった細田監督の、精一杯の抵抗だと思う。国内では興行的に失敗したが、海外では評価されたというのは面白い。

 

手塚治虫も宮崎駿も偉大ではあるが、盲目的に過大評価しなければならないのは商売のためであって、そんな「作家性」とやらに振り回されるとすれば、後進は大変である。「ポスト宮崎駿」を作りたいのなら日本テレビが人材を育てればいいじゃないか。