空転日記

はばかりながら はばかる

野田市女児虐待死事件に関して思うこと

僕は離婚していて娘と2人で暮らしている。いわゆる父子家庭である。そして平和に淡々と日々は過ぎてゆき、とにかく気楽である。

 

もちろん夫婦関係が破綻したのでこうなったわけだが、別れた妻はよく家に来るし、娘とも交流している。そして別れてからの方が元妻と気楽に接することができる。もう、何も求めていないし何も期待していない。もう別々の人生を生きていて必要な時にだけ関わればいい。

 

家族関係に本当に行き詰まったら「家族」なんてやめちゃえばいいのだ。修復不能になった「家族」なんて対外的な社会性を保証する枠組みでしかない。ただの外ヅラのためのものだ。それが破綻したら逃げちゃえばいいのだ。

 

野田市女児虐待死事件の報道を見てそんなことを考えた。もちろん僕の家庭の些事と比較できることではないが。

 

この事件で1番悪いのは女児を死に至らしめた父親である。しかしそれ以外にもたくさんの大人がいて、救えたはずの命をなくしてしまった。母親、学校の先生、親戚、ご近所さん、児童相談所や教育委員会の職員。

周りの大人にはそれぞれに立場や職務という枠組みの中にいる。そして大人はその中で出来ることしか出来ない。そんな大人達が「家族」という枠組みの中に囚われている女児を救い出すことは出来ない。「逃げちゃえ」なんて無責任なことは言えないのである。

 

そんな中で弱者が命を守るためは、社会が無責任さに寛容になることだと思う。ここまで崩壊している女児に対して無責任に「家族なんて捨てて逃げちゃえ」と言って導いてあげるべきなのだ。

 

そして「人権」という概念が、このような事件の抑止力にならないと感じる。

女児にも「人権」はあるがこの父親にもある。思想や行動の自由とそれぞれの幸福を追求する権利があるのだ。考えるのも嫌だが、この父親にとって実の娘を虐待することが幸福そのものだとしたらどうなるだろう。その権利を奪うことは出来るのだろうか。

 

そして重要なことは、無残に女児は亡くなり、法的にはその「人権」は消えてなくなったのである。一方父親はこれから容疑者として「人権」に基づき裁かれて行く。仮に有罪となり服役したとしても更生の態度を示せば模範囚となり早く出所できる。「人権」はあくまでも生きている者のためにある。仮に凶悪な犯罪者であっても守られる。「人権」は矛盾をはらんだ思想であり、いざという時には役に立たない。

 

今回の事件を受けて児童相談所の権限を強化する動きがあるが、虐待を受ける子供を守るためには親の「人権」を踏みにじる覚悟がなければならない。