空転日記

はばかりながら はばかる

人種差別について

日本において新型コロナウイルス感染が落ち着いてきたら、アメリカで黒人差別反対運動が盛り上がり、それが世界に波及してきた。

アメリカのミネアポリス郊外で黒人男性ジョージ・フロイドが警察官の乱暴な拘束によって死亡した事件からはじまり、全米各地で抗議デモが発生した。デモは暴動に発展し、一時は軍の投入を検討したという。

アメリカでは警察の解体・再編の機運が高まり、コロンブス像が打ち倒され、ある音楽バンドはその名が差別を連想させると自ら改名した。

差別はいけないことである。その上で困難を乗り越える象徴として、負の歴史を認めることはできないのか。まして現代の価値観で昔のことを断罪するのはファシズムのようなものである。分析し論評する程度にしておかないといけない。負の歴史がケシカランとなれば、大航海時代以降を全否定することになり大変なことになる。

 

名作映画「風と共に去りぬ」も「黒人差別を描いていない」という理由から配信サービスから除外されたという。間接的であっても差別に加担するという犯罪的行為がこの映画から読み取れるということなんだろう。

日本でタレントや歌手が麻薬等のスキャンダルで表舞台から消えたとき、必ず「作品に罪はない」の合唱が始まる。日本の芸能界やマスコミは「風と共に去りぬ」に関しても、同じように「作品に罪はない」と擁護しないとおかしい。

そうしないと、差別や弱者の苦しみを描かない作品はすべて「罪」であるということになってしまう。日本でも当然差別はあるし、いくらでもそれを見つけることができるからだ。

 

NHKのニュースで、日本で暮らす黒人系の女性が出演し、その生きづらさを訴えていた。差別がありつらい思いをしているという。ただ在日黒人系で差別を感じてない人もいるはずだ。どういったことが差別なのかは人によりけりである。

こういう報道が過度に行われるとなにがおきるか。単なる区別が差別ではないかというを疑念を生んでしまい、結果差別を生んでしまうのだ。

 

僕は差別はなくならないと思っている。「ある程度」の差別は社会にとって必要悪だとさえ思っている。個人内の差別心というのは社会の中で個を成り立たせるのひとつの要素だからだ。もちろん犯罪的な差別行動はダメである。

「差別のない暗い社会より、差別のある明るい社会」のほうがいいのだが、こんなこというと差別されてしまうのだ。