細田守監督作「未来のミライ」を見返す機会があった。公開したときに映画館で見たのだが、そのときは正直イマイチだなあと思い、当ブログでもエラソーに感想を書いている。
すいません。全く分かっていませんでした。あらためてみると「未来のミライ」傑作じゃないか。
「未来のミライ」は4歳の男の子「くんちゃん」の日常と非日常体験を軸にオムニバス風に進んでゆく物語である。非日常的な体験は以下のようなもの。
高校生になった妹が未来か突然やってきたり、飼い犬が人間になったり、幼い母親のいる世界にタイムスリップしたり、近未来風の奇怪な東京駅で恐ろしい目にあったり。
くんちゃんは一貫してワガママで生意気な子供で共感できない。成長もあまりしない。
家族の物語であるのは分かるがストーリーがギクシャクしている。そこが不評の原因だっただろう。それが間違っていたと気が付いたのである。
この映画はくんちゃんの視点で描かれているのではないのだ。高校生になったくんちゃんの視点ですべてが描かれているのだ。
高校生になったくんちゃんは親に反抗し、おそらく自分を見失い苦悩している。その高校生くんちゃんが、想像の中で、幼い自分や家族との関係性を見直す自己カウンセリングをしているのである。
くんちゃんは高校生になった未来の自分に会う。その後、電車に飛び乗り奇怪な東京駅へ行く。そこで遺失物センターで駅員と会話をする。
駅員「忘れ物ですか?どんな荷物をなくしました?」
くんちゃん「ううん。なにも」
駅員「こちらは遺失物届出窓口です。他の御用の場合は…」
くんちゃん「ぼく迷子になったの」
駅員「迷子。ではなくしたのは自分自身というわけですね」
くんちゃん「うん」
4歳児が「なくしたのは自分自身」と言われて「うん」というわけが無い。
これは、自分を見失った悩める高校生のくんちゃんの視点である。
すべてが高校生くんちゃんの想像の世界とすれば納得である。4歳のときのくんちゃんも「ワガママなクソガキ」だし、自分にあまり関心のない父親も怒ってばかりの母親もお洒落な家に住み物質的に豊かでもどこかギスギスしている家族も「そうであっただろう過去」なのである。
東京駅で迷子になるエピソードはやさぐれた高校生くんちゃんが迷い込んだ自分探しの旅と重ね合わせているのである。
くんちゃんが若いころのひいじいちゃんに会うエピソードがある。ここでくんちゃんとの交流を経てひいばあちゃんと結ばれるのだが、ここでタイムパラドックスが発生する。タイムスリップしてきたくんちゃんと会わなければくんちゃんは生まれない。
そう高校生くんちゃんの想像の中の世界ならタイムパラドックスなんて関係ないのだ。
物心付く頃には死んでいたカッコいいひいじいちゃんは高校生のくんちゃんが憧れの存在で、想像の世界で遊んでもらう。そこでアドバイスをもらい自転車に乗れるようになる。これはお父さんはなにもしてくれなかったというささやかな反抗なのだろう。
「未来のミライ」は幼い子供の成長物語ではない。苦悩して自己を見失った若者が回復してゆく物語だと気が付いた。なかなか奥深い作品ではないか。
すいません。なにも分かっておりませんでした。