昔はどこでも煙草が吸えた。
あちこちに灰皿があったし、駅のホームから線路を見るとポイ捨てされた吸殻だらけ。普通の電車内でもボックスシートは喫煙化だったし、飛行機でも吸えた。昭和40年代生まれの子供時代は今からすればびっくりの喫煙天国だったのだ。
高校生くらいのときに駅のホームに喫煙所が設けられた。喫煙所はだんだんとホームの端に追いやられ、寒い冬などは喫煙者は不満タラタラであった。
そのうち飛行機でも吸えなくなり、公共施設でも吸えなくなりと、喫煙者の受難が加速してゆく。
おまけに煙草のパッケージに健康被害について表示がされるようになる。はじめは側面に控えめに書かれていたが、すぐに正面下部にデカデカと書かれるようになる。
僕は愛煙家でロングピースを好んで吸っていたので、レイモンド・ローウィによる秀逸なデザインが台無しだよと当時は思ったし、健康を害する危険なものを国がお墨付きをあたえ、おまけに税金上乗せして売っているのか腹が立った。
そして時は過ぎ、禁煙に成功し、煙草からは縁遠い生活になった。
喫煙者である会社の同僚は、煙草休憩も一苦労である。喫煙所は遠く、しかもコロナで喫煙者に向けられる目は厳しい。
そんな中、注目の裁判が始まった。
愛煙家が喫煙の自由を求め国に損害賠償を求める裁判を起こしたのである。
改正健康増進法が施行されてから、飲食店での喫煙しながらの食事ができなくなり、喫煙者全体が社会から排斥されるべき存在のようなメッセージが発せられ、個人としての尊厳を傷つけられたという主張。
加えて受動喫煙の回避は大前提だが、喫煙者専用の店舗を設けるなど共生する方法があるのではないか、と訴えている。
他者に迷惑をかけなければ、たしかに喫煙は犯罪でもないし、喫煙を楽しむ行為は個人の権利として守られるべきだと思う。そんなにケシカランのなら販売を中止せよ。
しかし世論は厳しいようで、喫煙者を害悪のように攻めたて、裁判を起こした愛煙家に対する風当たりは厳しい。
だがちょっとまってほしい。(朝日新聞風)
個人にとってなにが大切かというものを選び取る権利は個人に属する。それが寿命を縮める結果になってもだ。「どう生きてどう死ぬか」ということは個人の尊厳と自由にもとづかねばならない。もちろん公共の福祉に反しない程度でね。その自由を手放していいのかな。これは関係ないと思っている人にもブーメランとして帰ってくる気がするのですよ。
煙草からの税を原資に喫煙者用の店を作るなどして「禁煙権」と「喫煙権」の両立はできないんだろうかと思う。
きわめて近い将来、危惧されるのは、新型コロナワクチンを接種しない人達に対する差別である。喫煙者を断罪するこの有様をみると、そちらも分断は進み社会は多様性と寛容を失ってゆくだろう。
今回の裁判は「私権の制限」議論にも繋がるものなので注目すべきだろうと思う。
多様性を尊重すすならなおのこと、様々な局面で判断を留保できる幅が、ある程度あったほうがいい。
民主主義は「好い加減」でいいのです。