射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

「ダメ人間マエダ」の終活(前編)の感想 人間は簡単に死ねないので楽しげな死後の世界が必要では

「終活」という言葉が想起させるのは、十分に人生を全うし、思い残すこともなく、家族にも恵まれて、泰然と死への準備を始める「リア充老人」の姿ではないかと思う。
一方で、確実に死が迫ってきているのに、死への恐怖に怯え心の整理も出来ず、思い残すことや後悔の念に苛まれ、強制的に「終活」を迫られる人もいるだろう。どちらかといえば後者のほうが多いのではないか。

ザ・ノンフィクション「人生の終わりの過ごし方『ダメ人間マエダ』の終活」を視聴。最近テレビのノンフィクション番組は、出演者の「仕込み感」が鼻につく。コロナの影響で取材がしにくいこともあるだろうが、総じて面白くない。

そんな中、「ダメ人間マエダ」はおそろしい番組であった。

番組では、自称「ダメ人間」のパチスロライターマエダが、癌を患い余命宣告をされる。その残された日々を、仲間との交流などを織り交ぜながら丹念に追う。
ノンフィクションとはいえカメラを前にして演技もあるだろうし、演出的な処理だってあるだろう。しかし1人の人間が確実に死んでゆくのである。そこでのリアルは瑣末なことを吹き飛ばす、おそろしい力がある。

マエダはパチスロ好きには有名な人らしい。
その方面では成功者であり、ダメ人間ではないじゃないかと思うのもつかの間、都内の裕福な家庭に生まれ、高校は進学校に行くが大学は行かず、定職にも付かず、2回の離婚歴があり、子供は3人いるが「父親は死んだ」ことになっており、実家で母親と2人暮らし。こりゃダメ人間だと思い直す。

30台半ばでパチスロに出会いライターとして人気者に。仲間にも恵まれ、やっと天職に就いたと思われたとたん、癌で余命宣告である。
残された時間を楽しもうと、酒を呑み、煙草を吸い、行きたいところに行き、やりたいことをするし、おまけにコロナに感染する、そんな刹那的な「終活」に付き合う仲間はどこまでもどこまでもやさしい。

放送後に「コロナ禍で自粛しないとは」という批判があったようだが、それが何だと思う。「どう死ぬか」は可能な限り尊重されるべきだと思うからだ。

番組の後半では、マエダは病状も進み日常生活も困難になってゆく。痛みにうめきながら路上で座り込む姿は痛々しい。

それでも仲間と一緒にいたい、注目されたい、仕事がしたいという思いと、やりたいことが出来ずに死んでゆく悔しさが画面から滲み出てくる。

自分がもし同じ境遇になったらどうなるだろうか。
死への恐怖はとてつもないのではないだろうか。自分が死んでいなくなるのである。

ここにあるパソコンも家も娘も思い出も自分の脳が存在を認めているから存在しているのである。自分の意識が消滅したら、そういったものすべてがなくなるのである。まさに無になるのである。世界の終わりといってもいい。自分の死後のイメージは真っ暗で巨大な穴にどこまでもどこまでも落ちてゆくが、それすら知覚できない感じ。怖い。

数多の宗教が死後の世界を提示してるのは救いなのだと思う。
死後の世界を虚無的なものではなく、楽しいパラダイスみたいに考えようかと思う。

死後の世界は酒も煙草もやりたい放題の酒池肉林のパラダイスという設定にしてみよう。死への恐怖が軽減するかもしれない。実際に死んだら話と違うじゃないかということになるかもしれんが。

さて番組は前後編に分かれていた。ダメ人間マエダが今後どうなるのかは後編で放送される。間違いなく死ぬだろう。後半も見たいと思う。