射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

バカボンニュートラルでいいじゃん 

「カーボンニュートラル」や「脱炭素社会」を目指すのが世界的の潮流だという。

「カーボンニュートラル」というのは、排出された二酸化炭素を技術革新でもって減らしたり、地中に埋めたり、排出権取引などで相殺するなどして実質ゼロにすることらしい。本当はあるのになしにする、インチキの類である。

このシステムを応用すればプリン体の摂取量を実質ゼロにする仕組みを作ることができるのではないか。痛風患者に朗報となる。ノーベル賞ものだ。

脱炭素社会を本気で目指すとすれば、いずれ内燃機関を搭載した自動車は激減する。
自動車メーカーの雇用は失われ、ガソリンスタンドは電気スタンドになる。不足する電力供給のために発電所を増やさねばならぬが、化石燃料を燃やす発電所は作れず廃止の方向。しがって日本でも原子力発電所をバンバン建設し、山を削り太陽光パネルを敷き詰めるしかない。
電気自動車の分野では日本より進んでいると宣伝されるヨーロッパを見よ。原発天国ではないか。天然ガスなどの資源の分捕りあいをやっているではないか。そのデメリットについては触れない。グレタさんに共感なぞしている場合ではない。

さりとてすぐに状況が激変することはない。内燃機関が電気機関に置き換わるのに長い時間がかかるし、航空機や船舶などはまだまだ内燃機関である。その間に環境ビジネスに関わる手配師がじっくり儲けるのである。

金儲けの道具は変遷する。第二次世界大戦後の東西冷戦下においては「安全保障」が利益をもたらし、冷戦が終わると、「福祉国家」に取って代わる。そして次は「環境」となった。

環境原理主義となるとなんとも息苦しい。
グレタさんに怒られ続け、環境にかける様々なコストに世界が耐え切れなくなったとき、パラダイムシフトが起こされ、環境ビジネスは終わり新たな手配師がやってくるのである。同じことの繰り返しである。

日本人は体裁を重視する。「世界が」と言われるとなんとも弱い。少々チャランポランで良い。昨日テレビを見ていたら、地下鉄が秒単位で正確に運行している様子が放送されていた。さすが日本人だとなることろだが、もう少し緩くてもいいんじゃない?

環境問題に対しても「これでいいのだ」と鈍感でよい。ちょっとズルしてもいいのだ。無理しなくてもいいのだ。
カーボンニュートラルからバカボンニュートラルである。

ああよかった。タイトルの伏線がなんとか回収できた。
タイトルを先に決めて書くというのは実によくないですね。すいません。