射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

「私たちは芝居を持たない国民になったのである」山本夏彦の言葉

「演劇」というものがある。
一言で演劇といっても様々な形態があり、オペラ、ミュージカル、新劇、ストレートプレイ、アングラ、学生演劇、アマチュア演劇などなど、演じるという意味ではバレエも演劇のひとつである。

日本の伝統芸能である歌舞伎、そこから分かれた新派などは「演劇」と呼ぶには少々違和感がある。それらは「芝居」と呼ぶのほうがしっくりくる。
大衆演劇なども「芝居」と呼ぶほうがいい。「大衆向けの演劇」というやや上から目線の名称はインテリが言い出したのだろう。

もともと日本にあったのは「芝居」であり「演劇」は輸入品である。

しかし現在幅を利かせているのは輸入品の「演劇」である。
どこか借り物めいた感じはそこから来るのだろうし、それを文化だとか生きるために必要だとか言われても反発を招くだけだ。

山本夏彦という名コラムニストがいた。山本夏彦が約30年前の平成3年に書いたコラム、「芝居を持たない国民」からいくつかの文章を抜粋し掲載する。歌舞伎の衰退について書いている。

震災前の歌舞伎を支えたのは魚河岸の「連中」と花柳界の「連中」で、「組見」とか「想見」とかいって大挙して見物してくれた。はじめ魚河岸次いで花柳界の「連中」がいなくなった。歌舞伎は花柳界が滅びたから滅びたのである。

非常に悲観的である。このまま滅亡するかのごとくである。しかし現代風の演出も取り入れ歌舞伎はしぶとく令和の世でも続いている。

客は減りこそすれふえはしない。老齢化するばかりである。歌舞伎の役者は客と共に老い、共に滅びるつもりでいる。新派もそのつもりである。ひとり新劇はその自覚がない。アングラは大人を引き付ける力がない。

現在において歌舞伎は抗っているといえるが、新劇への指摘はまったく的確だったろうし、令和の今も自覚はないかもしれない。新劇は西洋由来の「演劇」であり借り物のまま来てしまった。そして新劇は今ある大多数の「演劇」とよく似ているのだ。

どちらも、資本主義下の商業演劇なのに「金のためにやっているのではありません」といい、文化だ芸術だと頭でっかちなことばかり長々と言う。どこか浮世離れしていのは借り物だからだ。地に足が着いている伝統芸能はそんなことはない。

「芝居」ですら衰退しているのにこれではなおさら分が悪い。これでは「演劇」はますますアングラ化してしまうだろう。

可能性を感じる新たなジャンルもある。イケメン俳優が出演するアニメ原作の2.5次元ミュージカルの類は人気で集客を伸ばしている。これは小難しい理屈はいらない21世紀の「芝居」になりえるではないかと思うのである。借り物ではないからだ。しかし正統を自認するものは認めない。

畢竟(ひっきょう)芝居の時代は終わったのだ。私たちは芝居を持たない国民になったのである。

コラムの最後の文章である。「芝居」すら人心から離れてゆくとすれば、「演劇」も言わずもがなである。30年前の警句をどう感じるか。