射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

「民主主義」を連呼する人は何も考えていない説

政治について語る人はやたらと「民主主義」を連呼する。
「民主主義を守れ」「民主主義の危機である」「民主主義への冒涜である」など。

日本ではこれらの定形文は主に政府与党に向けられるので、つまり単なる政権批判である。深い意味はない。政治家が使う場合は単なるお題目である。これも意味はない。

おまけに「民主主義とは何か」と問われて直ぐに答えられる人は少ないと思う。僕もよく分からない。

民主主義を象徴するのは議会制度に代表される政治システムだろう。

議会制度はおおむね少数派の意見を排除する多数決を採用しているし、その中で「少数派の意見を聞きましょう」という矛盾を認めることは大多数の容認が必要である。
したがって、重大事は多数決で決めて、些細なことは少数派の意見も聞きましょうというのが現在の主流ではないか。これが民主主義だといってもよく分からないし、そもそも単なるシステムであり、ただの手段ではないか。
おまけに議会政治が民主主義であるのなら、ナチスドイツによる独裁も日本の軍国主義も民主主義そのものである。

「みんなが幸せに暮らせるために必要なもの」というふんわりしたお花畑的解釈で民主主義を説明する人もいる。しかし、かつての王政や帝政、封建主義や共産主義だって同じ事を言っていただろう。そして重要なツールである「人権」は他者を攻撃し、争いの種になることは証明されている。

こうなってくると「民主主義」はなんだかよく分からず、まるで宗教の一種である。

いたずらに「民主主義」を否定しているわけではない。それが現在の世のありようを保持しているのであれば、おおむね妥当であると言える。しかし細かいことを指摘すれば、それが指し示すものが「システム」なのか「思想」なのか「理想」なのか、あるいは「戦略」であるのか、まったく整理できていないと思うのだ。

現在の哲学者、評論家、政治学者、社会学者、ポピュリスト、アクティビストの皆さんも同じように民主主義を正とし、それがあたりまえであるという前提で活動している。

すこし掘り下げると矛盾に突き当たるのに、アタマのいい人達はそこを見ないようにしているのかなと思う。民主主義はフランス革命から始まったと言われるが、血みどろの革命である。しかも失敗に終わっている。そういうところも無視しているように見える。

そういった方々の主張に影響され民主主義を連呼する人は、何も考えていないのだろうなと思う。民主主義礼賛の被害者である。

政治的閉塞感を感じているならば、民主主義を疑ってみるといい。神学的論争から現実の世界に戻ることができるのではないか。