射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

谷川俊太郎「ぼく」子供に読ませていいのか?

詩人谷川俊太郎が「子供の自死」をテーマにした絵本を出版した。
絵を担当したイラストレーター合田里美さんの作業を通して、2年間に渡る絵本作りを追ったドキュメンタリー番組「ぼくは しんだ じぶんで しんだ 谷川俊太郎と死の絵本」を見た感想を書く。

この絵本は、絵本編集者から「子供の自死」をテーマにした絵本を作りたい、というオーダーに対して、谷川俊太郎が応えたものである。そして絵に合田里美さんを起用し製作がはじまる。そして番組は大物詩人である谷川俊太朗に振り回される編集者とイラストレーターの姿を追っていく。

番組内では谷川俊太郎の過去の言葉を紹介している。

「宇宙は恐ろしいところだと思っていたが、今は宇宙は未知のエネルギーに満ち溢れていて自分たちの母なんだと思っている。それは死後の世界にも通じる」

そして絵本作りの過程ではこんなことを言っている。

「友達や家族の中で生きる<ぼく>が自分を含めた自然に生き、ひいては限りない宇宙の中でも生きているのだということを絵本の中で暗示したいのです」

「生きたいということと、死にたいというとは別々なことではないし、反対でもない」
「自殺は生きたいということの連続。自分は死んでも自分は生きるということが隠れていると思う」

当初の編集者の希望は、子供の自死に対して「死ぬな、死なないで」というメッセージを与えたいというものだったのだが、結果としては絵本はそういうものにはなっていない。前述の谷川俊太郎の言葉を考えればそうなるのは当然である。

むしろ子供が自死をすることで宇宙と一体になるかのように描かれており、生きることと死ぬことは一緒であるといったメッセージが読み取れる。誤ったメッセージにならないように編集者があとがきを追加しなければならならなかった。

合田里美さんの絵はすっきりとした鉛筆画に美しい彩色がほどこされ大変素敵である。しかしラフ画に「スノードーム」を描いたことが谷川俊太朗を刺激する。完結した美しい世界を形作るスノードームに宇宙を見ちゃったのか、「スノードームを登場人物に」と言い出し、いざそのように作画するとスノードームが多すぎると言う。

そして若いイラストレーターには細かく注文するくせに、作中の「おとうさんえらくなっても おかあさんをきらいにならないで」という一節がジェンダーロールの固定化に繋がるのではないかという編集者の申し出には二つ返事で削除を了承する。

やっと絵本が完成し、編集者とイラストレーターがそろって谷川の元に報告に行き感想を求めると、開口一番谷川が言った言葉は「売れ行きをみないと」である。商売商売。

子供たちはこの本を読んで何を感じるだろう。
本当に死にたいと思っている子供にとっては「清らかで安らかな自殺」を肯定する内容になっているように思う。この谷川俊太郎の文学的言葉遊びは無責任である。

僕は人間には自殺する権利があると思っている。
生き物としてどう生きるかも自由だが、どう死ぬかも自由であるべきだからだ。しかし未熟な子供に限ってはそうではない。
子供の頃はつらくて仕方なくても、大人になれば物の見方も変わるし、嫌なことから逃げることもできる。社会とのかかわり方だって自分で選べる。上手くやれば大人であることは楽しいし最低限の役割を果たしていれば責任は問われない。大人になってどうしても死にたければ勝手に死ねばいい。

子供のうちに死んでしまったらもったいないのだ。

「自殺」を「自死」と言い換える動きがあるらしい。この絵本も「子供の自死」といっている。「自死」というとなんか自然に眠るように死んでゆくイメージがあるので反対である。実際の自殺は汚くて無残で残酷であり安らかでも清らかでもない。

なんと言われようが死ぬ自由はない!死ぬな!大人は楽しいぞ!と子供に伝えるのが大人の役割ではないか。