射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

人権思想と自殺権

上島竜平が死んだ。自殺らしい。つい最近渡辺裕行も自殺したとのことなので、立て続けに芸能界に悪いニュースが流れることになった。

自殺のニュースは終わりに「命の電話」の告知が入るので直ぐ分かる。「つらかったら1人で抱え込まないで電話して」という。
自殺願望の強い人はそもそも他人に相談しない。家族にも相談しない人がカウンセラーに電話なんてしないだろう。はたして「命の電話」は命を救うのだろうか。

コロナ禍で芸能界も激変した。野外のロケや人との接触が出来なくなり、多くの仕事がなくなっただろう。マスコミはタレントの自殺理由を求めたがる。そうするとコロナ禍のせいと言いがちである。もちろんコロナ禍はタレント活動に大いに悪い影響を与えただろうし、それが原因であることは否定しにくい。しかし自殺した原因はその人にしか分からない。コロナ禍のせいと勝手に決め付けるのは止めたらどうか。

しかもコロナの恐怖をあおり、過度な自粛を求めるマインドを醸成したのはマスコミである。煽り報道によって、あくまで「要請」でしかなかったものを「強制」にした。そのようにつくられた「自粛マインド」が芸能界などの水商売を直撃した。仮に芸能人の自殺がコロナ過のせいであったなら、マスコミに殺されたも同然ではないか。

 

そして自殺は家族を悲しませるという点において悪いことなのだが、死にたい本人からすれば救済なのかもしれないと思う。
個人の権利が尊重される時代にあって自然権としての「自殺権」を否定することはできるのだろうか。「どう生きるか」と同じくらい「どう死ぬか」は大事である。自殺する自由だってあるはずだ。人権イデオロギーの帰結として「自殺権」の肯定は必然である。

安楽死が行われている国もある。もちろん無駄な延命治療を止めにするという目的であって自殺ではない。しかしこれが当たり前になると解釈が拡大していくだろう。

人権上、「耐え難い体の痛み」と「耐え難い心の痛み」を区別することは出来なくなると思うのである。そして安楽死はいずれ日本でも導入されるだろうと思う。
そうなれば必然的に「自殺権」について考えることになるだろう。