開戦当初は「ロシアの軍資金はすぐに枯渇する」とか「ルーブルは暴落してロシアは破綻する」と識者やマスコミは吹聴していたが、戦争終結まで数年かかるかもという観測まで出始め、見誤るにもほどがある。どうも「こうあって欲しいバイアス」が判断を誤らせてはいないか。
もう少し時間が経過すると近隣諸国に散った沢山のウクライナ人は受入国の負担となり厄介者になるだろうし、ゼレンスキーの正義にも翳りが見え始め、そのうち飽きがくるだろう。熱狂は冷めやすい。
「こうあって欲しいバイアス」が判断を誤らせるのは世の常である。その最たるものが共産主義に対する認識だと思う。
今回のウクライナ戦争について「共産主義」対「民主主義」と考える向きもある。全くおかしな解釈である。
そもそも「共産主義体制」は存在しなかった。
自由と人権を究極まで突き詰めた共産主義を実現すべく、移行段階として「社会主義体制」が作られた。共産主義を実現するためには人民から土地財産を没収しなければならない。その前段階として社会主義体制が敷かれ、その過程で、一部の権力者に富が集中し腐敗が起きる。それを共産主義の理想を実現するための必要悪として認めたのだ。
その後、たゆまず革命を行い「究極の民主主義」である共産主義が成立する、はずだったのだが、その前段階の社会主義体制で耐え切れず瓦解してしまったのだ。
その後ロシアや中国は、ある程度の自由経済を導入し、結果自由主義陣営と基本原理に違いはない。
共産主義は来なかったユートピアなのだ。
自由や平等を否定する民主主義者はいない。ならば、共産主義を否定する民主主義者はインチキである。程度の差があれ同じ方向を向いているのだから。
「こうあって欲しいバイアス」において共産主義は悪である。それは自分たちが所属するう民主主義陣営とやらが正義だと信じたいからである。
ところがたいした違いはないのだ。一歩間違えれば全体主義にも独裁にもなるのが「民主主義」なのだ。