射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

「レジデント・エイリアン」の感想 ~差別も区別もない浄化された町~

TVドラマを見る習慣はないのだが、たまたま第1回の放送を見たのでそのまま見続けているアメリカのSFコメディー「レジデント・エイリアン」の感想である。

アメリカの田舎町ペイシェンスの近くに地球侵略にきたエイリアンの宇宙船が墜落する。生き残ったエイリアンは湖のほとりに1人で暮らす医者ハリーを殺し、その容姿に擬態し、墜落の際に紛失した人類抹殺装置の捜索を開始する。
そして町に1人しかいない医者が殺され検視を行うことになる。そのまま不在となった町医者の替わりとなり、町の人々と交流が始まるという話。

基本的におバカなSFコメディーでNHKにしては下ネタも多く大変好ましい。登場人物もみな個性的で楽しいのだが、それぞれに苦悩を抱えており群像劇としても楽しめる。中でもダーシー役のアリス・ウエッタールンドが色っぽくてよい。非常によい。

舞台となる田舎町ペイシェンスは娯楽はボーリングぐらいしかなく、町に1軒あるバーが唯一の社交場である。登場人物の何人かはうだつの上がらない町に失望して、都会に出て行き、上手くいかなくてまた出戻っている。日本でもあるザ・田舎町である。

口の悪い保安官は黒人でその代理は気の弱い白人女性。医者ハリーの相棒となるヒロイン、アスタはネイティブアメリカン系。若く気が弱い町長ベンの息子マックスの友達はヒシャブをつけておりイスラム教徒だろう。

多様な人種が登場しているのはポリコレの影響であろう。ドラマ内でもまったく「差別」はない。もちろん問題はないのだが不自然な感じがするのは「区別」もないからだ。たとえば「あの子はイスラム教徒なのか」とか「私はネイティブアメリカンの血を引いているの」とかそういう台詞すら全くない。

「差別」はもちろんのこと「区別」もないことにしているのだ。なんともきれいに浄化されたポリコレ的に正しい田舎町である。

もちろんドラマはフィクションであるので問題はないと言えば、ない。ただ不自然なのである。楽しいコメディにさりげなくある種の意図がこめられている気がするのは下衆の勘ぐりか。

今後の展開として主人公のハリー(エイリアン)の正体と人類抹殺という目的が明らかになるだろう。するとエイリアンへの敵対心むき出しの差別が始まることになるはずだ。さすがにエイリアンはポリコレや多様性の範囲外であるので。

今後はますます差別的区別的な描写が創作物においてNGになってゆくのだろう。それは創作物の幅を狭めドラマ性に制限を加えることになる。多様性が担保され、きれいに浄化されたものしかなくなるのだ。日本でも映画やアニメ、小説などだんだん不自然に息苦しいものになってゆくのだろうなと思う。