射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

小劇場の思い出

高校生から大学生にかけて小劇場演劇にはまっていたことがある。

80年代は消防法もうるさくなく、小劇場では狭い桟敷席にすし詰めにされ、大入りだと通路にまで客を座らせていた。今ならアウトであるが、しかしそういう熱気が好きであった。

新宿といえは紀伊国屋ホールをはじめ、シアターモリエール、シアターサンモールなどもあったが、どうもちゃんとした椅子に座ってみる演劇というものは保守的でつまらないという青臭い固定観念があり、シアタートップスやシアターアリスなどの劇場やそこで打たれる演劇が好きであった。

新宿のゴールデン街のはずれにシアターDENという小劇場があった気がする。芝居が終わり外に出ると、高校生には刺激の強い世界が広がり「いけない世界」に足を踏み入れている気がして、ちょっと違う高校生といった風情を自分に感じ、それだけで満足していたと思う。実は芝居はあまり覚えていないのだ。すいません。

 

小劇場系の劇団や俳優のありよう、チケットの価格や社会的地位など、その後大きな変化はなかったように思う。しいて言えばフリーターなどが社会的に認知され、個性を重んじるようになったので、劇団活動はやりやすくなったかもしれない。

 

取り巻く社会は大きく変わった。コミュニケーションの手段がデジタルデバイスに変わり、情報はデジタル化されている。

車はコミュニケーションの手段であった。車があれば友達誘って遊びに行ける。そこから新しい友達が生まれたりした。いまではコミュニケーションはSNSに一任され、車はコストのかかる道楽となった。

音楽もカーステレオで人に聞かせるためせっせとテープに録音したのだが、いまではスマホにイヤホンである。スピーカーをもっていない若者も多いと聞く。

観劇も、友達を誘い一緒に行ったりするコミュニケーションの手段でもあった。コミュニケーションの変化にともない、小劇場もマニアックなものになっていて、そして意外と観客に高齢者が多いのだ。定年退職した世代は若いこと小劇場ブームであり、その頃は仕事に忙しく観劇なんてできなったのだ。そういう世代が若い頃を懐古して小劇場を見に来ている。

 

コロナ禍で小劇場も大打撃を受けている。もともと金にならないものだから(失礼)経済的な損害がいかほどかわからないが、今後はその存在自体が敬遠されてしまう可能性がある。

今後芝居を打つときは客席間に空間をつくらねばならぬ。収入も減るし熱気も冷めてしまう。必然的に配信を組み合わせてゆかねばならない。

しかしコロナ禍の初期のころ演劇関係者から聞こえてくるのは「演劇はお客さんがいないと成立しない」とか「無観客では芝居ができない」という声であった。

 

かつて小劇場に通っていた頃に思ったことがある。

面白いと評判の芝居を見に行くとき客は「面白い芝居をみている観客」を演じているのだ。昔からなににせよ同調圧力はあり、内心「つまらない」と思っていても観客は笑うのである。演劇でもっとも優秀な演者は「観客」である。売れている劇団ほどその傾向は強く、その演劇はその「観客」のサポートをうけて「成立」しているという面がある。

 

ウィズコロナの世界ではデジタル技術を導入し配信による公演が必要となる。

これから演劇が試されるのはそういう「観客への依存」からの脱却だろう。それが出来れば観客と対等になり、ある意味で自立した、良い意味でメジャーな存在になりえると思うのだ。

そして有料配信による公演が増えてくるなら、それにともなう俳優や技術スタッフのロイヤリティについての取り決めをしなければならない。今までは現場での本番回数でギャラが発生していたが、アーカイブで売り上げが発生する場合、それを関係者にどの程度還元するのか。これは各業界団体がすぐに話し合わないと大変なことになる。そうしないと優秀なスタッフの技術が途絶える可能性がある。

これから演劇業界自らが変わってゆくべきで、SNSで反体制的な言葉ばかりを訴えていてもしょうがないのだ。