空転日記

はばかりながら はばかる

自然は人間に無関心

九州で豪雨による災害が発生した。
あちこちの河川が氾濫し、住宅の浸水被害や土砂崩れが発生した。場所によっては壊滅的被害となっている。

最近の自然災害は大都市圏では起こりにくく地方で多発している。
つまり人間の手が入ったエリアと自然のエリアの「境界線」で起きている。

川が削った谷に山を削り道路や住宅を作り「境界線」すれすれに人間の営みがある。一度自然が牙を向けば大災害である。自然は人間に無関心だ。

川辺川ダムが予定通り完成していれば被害は軽減されたという。
民意により反対され、時の政権が「コンクリートから人へ」と中止を決めた。
今回の甚大な被害は、民主主義が正しく機能した結果なのだ。

熊本県知事は「ダムによらない治水」を目指し、できなかったという。
川幅を広げ、川底を削り、護岸工事をして、高い堤防を築き、川ぞいの住宅や施設は高台に移転する。それが「ダムによらない治水」である。莫大な費用と時間がかかる。そして自然に与える負荷はダム以上である。やろうとしても住民は反対しただろう。
「ダムによらない治水」は結果的に「氾濫を受け入れる」ことを選択することだったのである。

東京は「境界線」がなくなるよう大開発をしている。川にも広い河川敷があり、護岸工事や土手も作ってある。「手付かずの自然」などない。そして災害に強い。
しかし地震には弱いだろう。社会インフラが壊滅したら大変だし、人口も多すぎる。

どこに住めば安全なのか自分で考えて判断しなければならない。過去の教訓が通用しない時代になってしまったのだから。

 

 

 

 

 

 

ファクターXをさがせ!?

日本人は新型コロナウイルスに罹患しにくいという。

緊急事態宣言の解除を発表した5月25日、日本のコロナウイルスによる死者は851人である。アメリカでは9万7千人、イギリスでは3万7千人、イタリアでは3万3千人である。

日本の死者数は桁違いに少ない。死亡率は世界最低水準である。

しかも徹底的なロックダウンは行われておらず、外出禁止や罰則もない緩さにもかかわらず、非常に奇妙なことに他国に比べ、政府に批判的である。

海外からは「日本の奇跡」や「奇妙な成功」といわれているらしい。

 

その死者数の少なさには別の要因があるはずで、その「ファクターX」を見つけようという動きがある。

BCC摂取が免疫を作り出しているという説は有力だ。それ以外にもマスクに抵抗がないこと、基本的に清潔であることなどがあげられるが。どれもよく分からない。

その他にも人種の問題、味噌や納豆などの発酵食品を好む食生活なども影響があると思う。低い死亡率はアジア人に共通するので、お箸の国の人だからかもしれない。

 

いずれにせよ、アジア人は新型コロナに強いのは事実で、ファクターXは絶対にあるはずだ。これは絶対解明されなければならないのだが。不安がある。

 

この手の話はどうしても「日本人すごい論」に対する批判に絡め取られ、ナショナリズム論をまとってしまうのだ。それに最近では人種によって区別することも批判の対象になりがちである。

加えて製薬利権である。世界中で巨額の利益を生む製薬業界の影響力はすごいものがある。PCRや抗体の検査キットやワクチン、いずれ開発される薬など巨額のマネーが動いているのだ。それが納豆食べたらコロナにかからない、なんてバレたらエライことなのだ。絶対に黙っていなければならない。

したがってファクターXは都市伝説の類として葬られると思っている。

 

 

 

 

 

小劇場の思い出

高校生から大学生にかけて小劇場演劇にはまっていたことがある。

80年代は消防法もうるさくなく、小劇場では狭い桟敷席にすし詰めにされ、大入りだと通路にまで客を座らせていた。今ならアウトであるが、しかしそういう熱気が好きであった。

新宿といえは紀伊国屋ホールをはじめ、シアターモリエール、シアターサンモールなどもあったが、どうもちゃんとした椅子に座ってみる演劇というものは保守的でつまらないという青臭い固定観念があり、シアタートップスやシアターアリスなどの劇場やそこで打たれる演劇が好きであった。

新宿のゴールデン街のはずれにシアターDENという小劇場があった気がする。芝居が終わり外に出ると、高校生には刺激の強い世界が広がり「いけない世界」に足を踏み入れている気がして、ちょっと違う高校生といった風情を自分に感じ、それだけで満足していたと思う。実は芝居はあまり覚えていないのだ。すいません。

 

小劇場系の劇団や俳優のありよう、チケットの価格や社会的地位など、その後大きな変化はなかったように思う。しいて言えばフリーターなどが社会的に認知され、個性を重んじるようになったので、劇団活動はやりやすくなったかもしれない。

 

取り巻く社会は大きく変わった。コミュニケーションの手段がデジタルデバイスに変わり、情報はデジタル化されている。

車はコミュニケーションの手段であった。車があれば友達誘って遊びに行ける。そこから新しい友達が生まれたりした。いまではコミュニケーションはSNSに一任され、車はコストのかかる道楽となった。

音楽もカーステレオで人に聞かせるためせっせとテープに録音したのだが、いまではスマホにイヤホンである。スピーカーをもっていない若者も多いと聞く。

観劇も、友達を誘い一緒に行ったりするコミュニケーションの手段でもあった。コミュニケーションの変化にともない、小劇場もマニアックなものになっていて、そして意外と観客に高齢者が多いのだ。定年退職した世代は若いこと小劇場ブームであり、その頃は仕事に忙しく観劇なんてできなったのだ。そういう世代が若い頃を懐古して小劇場を見に来ている。

 

コロナ禍で小劇場も大打撃を受けている。もともと金にならないものだから(失礼)経済的な損害がいかほどかわからないが、今後はその存在自体が敬遠されてしまう可能性がある。

今後芝居を打つときは客席間に空間をつくらねばならぬ。収入も減るし熱気も冷めてしまう。必然的に配信を組み合わせてゆかねばならない。

しかしコロナ禍の初期のころ演劇関係者から聞こえてくるのは「演劇はお客さんがいないと成立しない」とか「無観客では芝居ができない」という声であった。

 

かつて小劇場に通っていた頃に思ったことがある。

面白いと評判の芝居を見に行くとき客は「面白い芝居をみている観客」を演じているのだ。昔からなににせよ同調圧力はあり、内心「つまらない」と思っていても観客は笑うのである。演劇でもっとも優秀な演者は「観客」である。売れている劇団ほどその傾向は強く、その演劇はその「観客」のサポートをうけて「成立」しているという面がある。

 

ウィズコロナの世界ではデジタル技術を導入し配信による公演が必要となる。

これから演劇が試されるのはそういう「観客への依存」からの脱却だろう。それが出来れば観客と対等になり、ある意味で自立した、良い意味でメジャーな存在になりえると思うのだ。

そして有料配信による公演が増えてくるなら、それにともなう俳優や技術スタッフのロイヤリティについての取り決めをしなければならない。今までは現場での本番回数でギャラが発生していたが、アーカイブで売り上げが発生する場合、それを関係者にどの程度還元するのか。これは各業界団体がすぐに話し合わないと大変なことになる。そうしないと優秀なスタッフの技術が途絶える可能性がある。

これから演劇業界自らが変わってゆくべきで、SNSで反体制的な言葉ばかりを訴えていてもしょうがないのだ。