射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

共産主義は来なかったユートピア

開戦当初は「ロシアの軍資金はすぐに枯渇する」とか「ルーブルは暴落してロシアは破綻する」と識者やマスコミは吹聴していたが、戦争終結まで数年かかるかもという観測まで出始め、見誤るにもほどがある。どうも「こうあって欲しいバイアス」が判断を誤らせてはいないか。

もう少し時間が経過すると近隣諸国に散った沢山のウクライナ人は受入国の負担となり厄介者になるだろうし、ゼレンスキーの正義にも翳りが見え始め、そのうち飽きがくるだろう。熱狂は冷めやすい。

「こうあって欲しいバイアス」が判断を誤らせるのは世の常である。その最たるものが共産主義に対する認識だと思う。

今回のウクライナ戦争について「共産主義」対「民主主義」と考える向きもある。全くおかしな解釈である。

そもそも「共産主義体制」は存在しなかった。

自由と人権を究極まで突き詰めた共産主義を実現すべく、移行段階として「社会主義体制」が作られた。共産主義を実現するためには人民から土地財産を没収しなければならない。その前段階として社会主義体制が敷かれ、その過程で、一部の権力者に富が集中し腐敗が起きる。それを共産主義の理想を実現するための必要悪として認めたのだ。

その後、たゆまず革命を行い「究極の民主主義」である共産主義が成立する、はずだったのだが、その前段階の社会主義体制で耐え切れず瓦解してしまったのだ。
その後ロシアや中国は、ある程度の自由経済を導入し、結果自由主義陣営と基本原理に違いはない。

共産主義は来なかったユートピアなのだ。

自由や平等を否定する民主主義者はいない。ならば、共産主義を否定する民主主義者はインチキである。程度の差があれ同じ方向を向いているのだから。

「こうあって欲しいバイアス」において共産主義は悪である。それは自分たちが所属するう民主主義陣営とやらが正義だと信じたいからである。

ところがたいした違いはないのだ。一歩間違えれば全体主義にも独裁にもなるのが「民主主義」なのだ。

人権思想と自殺権

上島竜平が死んだ。自殺らしい。つい最近渡辺裕行も自殺したとのことなので、立て続けに芸能界に悪いニュースが流れることになった。

自殺のニュースは終わりに「命の電話」の告知が入るので直ぐ分かる。「つらかったら1人で抱え込まないで電話して」という。
自殺願望の強い人はそもそも他人に相談しない。家族にも相談しない人がカウンセラーに電話なんてしないだろう。はたして「命の電話」は命を救うのだろうか。

コロナ禍で芸能界も激変した。野外のロケや人との接触が出来なくなり、多くの仕事がなくなっただろう。マスコミはタレントの自殺理由を求めたがる。そうするとコロナ禍のせいと言いがちである。もちろんコロナ禍はタレント活動に大いに悪い影響を与えただろうし、それが原因であることは否定しにくい。しかし自殺した原因はその人にしか分からない。コロナ禍のせいと勝手に決め付けるのは止めたらどうか。

しかもコロナの恐怖をあおり、過度な自粛を求めるマインドを醸成したのはマスコミである。煽り報道によって、あくまで「要請」でしかなかったものを「強制」にした。そのようにつくられた「自粛マインド」が芸能界などの水商売を直撃した。仮に芸能人の自殺がコロナ過のせいであったなら、マスコミに殺されたも同然ではないか。

 

そして自殺は家族を悲しませるという点において悪いことなのだが、死にたい本人からすれば救済なのかもしれないと思う。
個人の権利が尊重される時代にあって自然権としての「自殺権」を否定することはできるのだろうか。「どう生きるか」と同じくらい「どう死ぬか」は大事である。自殺する自由だってあるはずだ。人権イデオロギーの帰結として「自殺権」の肯定は必然である。

安楽死が行われている国もある。もちろん無駄な延命治療を止めにするという目的であって自殺ではない。しかしこれが当たり前になると解釈が拡大していくだろう。

人権上、「耐え難い体の痛み」と「耐え難い心の痛み」を区別することは出来なくなると思うのである。そして安楽死はいずれ日本でも導入されるだろうと思う。
そうなれば必然的に「自殺権」について考えることになるだろう。

子育ては適当でもいい

娘が小学生のころ妻が出て行ったので、それ以来我が家は父子家庭である。
仕事と子育てとの両立はそれなりに大変であった。でもそこそこ上手くやってきたと思う。日々の家事や弁当作りは当然やらなければならないし、そこに学校の保護者会やPTA活動、部活の保護者会などが加わる。

仕事との両立は大変だったし、めんどくさいことばかりだが、生きるために必要なのだからやるしかない。

「ワンオペ育児」ではあるが、すでに小学生だったのでなんとかなった。仮に娘が保育園に通っていた頃にひとり親になっていたら、破綻していただろう。

娘を連れて実家に帰り、親を頼るという選択肢もなかったわけではない。ただ現在住んでいる家の問題もあるし、生活の拠点を変えるというのもハードルが高い。結局娘と二人の生活を選んだ。

すべては自分で選んだ道なので文句もない。

晩御飯が作れない時はコンビニで済ましたりもできる。最近のコンビニ飯は美味しいので助かる。家事は基本真面目にやっていたが、たまには手を抜いても大丈夫。

よくテレビで大家族物が放送されるが、食事などは細かいものは作れず、大皿料理を大勢で奪いあい。栄養バランスなんて考える余裕なんてないだろう。でもみんな健康そう。栄養バランスをよく考えて手の込んだ料理をつくる「恵まれた」家庭の方が、アレルギーとか持病持ちが多いように思うのだが、偏見だろうか。

安月給なのでひとり親世帯の支援制度や高等教育の支援制度が活用でき、大学の学費もどうにかなった。ありがとう会社。ありがとう安月給。

今では娘も大学生になり手が掛かることはない。家事などが楽になる一方、僕自身は、本来のダメ人間としての資質がムクムクと蘇ってきた。1人で飯を食べる時の適当さは自分でも関心する。スーパーで鳥の唐揚げを買ってきて、あと白米だけとか。

1人だと外食に行くものめんどくさいのだ。ホントに「ただれた生活」である。なのに健康。痛風以外は健康。

まあ適当でもなんとかなりますよ。

最近の世の子育て事情をみると、真面目にやりすぎているんじゃないかと思う。当事者が自らハードルを上げて破綻しているように見える。

それを煽るマスコミや風潮が悪いのだけれども。

良い戦争、悪い戦争

戦争についてリアリティーを持って語ることは、長いこと日本においてはタブーだったと思う。

夏になると「あの戦争を忘れるな」とマスコミは連呼し、戦争物の特番が放送され、日本は酷い国だったと子供たちに刷り込む。

僕が子供の頃はそうだった。高校の歴史教諭は学校のカリキュラムを無視して旧日本軍の戦争犯罪の話ばかり。

「国を愛する」という言葉を使ったら右翼だと思われたし、今では信じられないが「国民」でさえあまり使われなかった。ましてや戦争について正面から語ってはならない、そういうリアリティーのない敗戦国マインドが支配していたのだ。

とはいえ、平和憲法によって日本は素晴らしい国になったのだ、と言われると誇らしかったものである。

当時は東西冷戦の時代で、そのうち核戦争が起き世界は滅ぶと警告されており、未来は暗かった。しかしどこかで日本は関係ないと思っていた。それは日本には平和憲法があるので、戦争に加担しないし、世界を動かす立場でもないし、他国に影響も与えることもないと考えていたからである。なんとも無責任な単独平和主義である。戦争に良いも悪いもなく、そんなの関係ねえという境地に至ったのはひとえに教育の賜物である。

時は過ぎ、日本でも観念的平和主義は力を失い、ウクライナ戦争に至り、戦争を正面から語り国防や軍備を論じることが増えてきた。大きな変化である。自衛隊のあり方や、憲法改正についての議論もタブーはなくなりつつあり、これは良い事である。

ただウクライナ問題が巻き起こした一過性の現象かもしれないとも思う。
保守系の評論家や専門家がそういった議論を主導しているのだが、ウクライナの抵抗を賞賛しロシアを批判するその立ち位置に、アメリカの影響を大いに感じ、どこか胡散臭いし、マスコミの無節操な乗っかり具合も気持ち悪い。

ウクライナ戦争は長期化が確定した。いずれ世論もゆり戻しがくるかもしれないし、先に手を出したロシアが悪いのだという言説は意外と脆いかもしれない。

「良い戦争も悪い戦争もなくどちらも悪いのだ」も思考停止かもしれないが、「先に手を出したほうが悪いのだ」も単純に過ぎる。どちらも小学校の学級会の議題のようで薄っぺらく感じる。

国家間の戦争はその都度その都度、様々な複雑な要因があるもので、そんなに簡単な話ではない。その辺の複雑な状況を研究するのが専門家に求められるし、ましてやプロパガンダに加担してはならないと思うのだ。

国連は戦勝国の互助会

第二次大戦は連合国(United Nations)と枢軸国(Axis powers)との戦いであったが、その大戦の戦勝国により結成された国際組織がUnited Nationsである。

日本語では「国際連合」と訳されるが誤訳といってよい。United Nationsなのだからそのまま「連合国」である。強いて言えば「連合国連合」でもいいか。

要するに第二次世界大戦の戦勝国が作った国際組織であり、つまり第二次世界大戦は終わっていないということである。

ウクライナ問題を受けて機能不全に陥っているとされる国連安全保障理事会であるが、そもそも国連そのものが戦勝国の利害関係を調整するためのものである以上、どうにもならない。

それにつけても国連に希望を託したがる人が多い。特にリベラル側に。
共産党なんかはロシアを批判する理由として「国連憲章に違反している」ということをやたらと強調する。まるで国連憲章が人類共通の金科玉条であるかのようである。
日本国を形作る概念や統治機構より、国連や国連憲章の方が上位概念であると考えているとすれば、なんとも共産党らしい。

国連の安保理が機能不全に陥っている原因として、常任理事国の拒否権の問題がある。

国連に期待する勢力は、拒否権問題さえどうにかすれば国連は立派に機能し世界平和が実現するかのようにいう。

しかし常任理事国は核保有国でもあり、国連が保障する世界平和は、恐るべき力によって均衡が保たれたものでしかない。そのような国連になにを期待するのか。

かつて国家間の枠組みや国境線は溶けてなくなり、人類みな地球市民となって争いのない平和な時代が来ると一部の人たちが考えていた時代があった。その際には国連が「世界政府」となる予定だったわけだ。加えて国連に期待することはナショナリズムの否定につながり、知的で進歩的だった。

しかし残念なことに国連は単なる戦勝国の互助会である。

結婚あれこれ

最近電車に乗っていて気が付いた。
40代から50代とおぼしき男女で結婚指輪をしていない人が多い。最近の調査によると東京の男性の3人に1人、女性の4人に1人は生涯未婚であるという。なるほどである。

僕が若い頃は「DINKs」という言葉が流行っていた。
「Double Income No Kids」の略で、結婚しても共働きを続け子供を産まず、夫婦2人で生活を続けるというライフスタイルのことである。

2000年代になると高齢出産がもてはやされたこともあり晩婚化が進んだ。若いうちに結婚や出産をしないのは、キャリアを積み収入が安定するまで子供を作らないという計算もあっただろう。

そのころは芸能人が50代で子供を産んだなどと話題になり、40代で出産なんて当たり前という風潮が生まれた。しかし現在では高齢出産のリスクも指摘されるようになり、出産はやっぱり若いうちがいいと考える人が増えたように思う。

いずれにせよ、結婚や出産はその時々の社会の風潮の影響を受け、振り回されてきた。その時の流行にのり、大きな悔いをのこした人もいるだろう。
そして結婚や子育ては社会的な行為でもあるのが、行き過ぎた個人主義がその点を隠す。

昔は40代で独身だったら身体的に欠陥があるのかと思われたものである。そして出会いがなくても「お見合い」という制度があり、収まるところに収まったのである。今だったら、結婚前提の出会いを親戚のオバちゃんに演出されるなんてあり得ない。

と思ったら間違いだと気が付いた。ネットの広告に出会い系のサイトがあふれている。これは現代の「お見合い」である。なんだ1回りして昔に戻っただけじゃないか。

結婚したければネットで探せるし、したくなければしなくてもいい。国際ロマンス詐欺に騙されるのも自由。個人が尊重される良い時代になったともいえる。

それに少子化問題なんて政府が考えるものでワタクシには関係ないしね。

知床遊覧船社長の人権は守られる

北海道知床半島の海で乗客・乗員26名が乗った観光船が行方不明となっている。
沈んだものと思われ、現在乗客のうち11名が見つかり死亡が確認されている。酷いことである。

最近事件事故が起きても、なかなか関係者や被害者の名前が報道されない。プライバシーや人権に配慮しているということだろう。

行方不明となっている船長の名前は早くに公表された。

被害者・行方不明者の家族に対し不誠実な対応をしたとされる運航会社社長の名前は直ぐには公表されなかった。マスコミ向けの記者会見を行う際に明らかになったが、船長名前の公表と比べると数日のタイムラグがある。

船長はおそらく死んでいるからである。現在行方不明となっている人達の生存も望みは薄く、流され見つからない可能性もある。

こうなると船長の罪は問われない。死んだ人の人権に配慮する必要もないからだ。

最高責任者である桂田精一社長は今後罪を問われることになるだろうし、社会的制裁も受けるだろう。しかし彼は生きていて人権があり、その点において公的には配慮され守られるのである。

現在の刑法では桂田社長は死刑にはならない。20名以上の人を殺したことと、おそらく10数年刑務所で暮らすことが等価なのである。遺族の怒りややるせなさは計り知れない。

評論家の呉智英によれば「死刑」は基本的人権に背いているという。それは死刑が残酷だからとか人道に反するからなどの理由ではない。人間が本来持っている権利である「復讐権」を国家が取り上げているからであるという。

この事故の被害者は、社長を殺したいだろうと考えているだろう。当然である。

しかしそれは人権思想や近代国家のルールとやらでかなわない。これこそ重大な基本的人権への侵害ではないか。加えて「基本的人権」というイデオロギーは自身を疑う機能を持たない点で大いに問題があるのだ。

これは「民主主義」も同様である。

 

ウクライナを支援する理由

ウクライナ-ロシア戦争は長期化の様相を示し、ゼレンスキー劇場も耳目を集めなくなってきた。報道や専門家の意見も当初と変わらず、侵略してきたロシアが悪い、ウクライナが降伏したら酷い目にあうから徹底抗戦しかないのだという論調を続けている。

その専門家の意見が正しいとしたら、ウクライナ人には未来はない。ロシアが侵略をやめる気配はないし、ならばゼレンスキーは玉砕を選ぶしかないからだ。

戦争で一般市民が殺されるのは悲しいことであるしロシアに多くの非がある。とはいえ僕には関わりのない国の話であり、感情的に肩入れするべきではないと思っている。

支援国に感謝の意を示すために、ウクライナ防衛省が動画を作成し公開した。アルファベット順に支援国名が流れるがその中に日本がなかった。

兵器などの軍事支援をしてくれる国が対象とのことだが、ウクライナに協力し物資を支援したりロシアへの経済制裁を行っている日本では、まるで軽んじられたようで腹を立てる人もいるだろう。外交ルートで抗議するべしとする保守系の議員もいる。

先日もウクライナ大使館が昭和天皇をファシストとして紹介する画像を公開し波紋を広げた。直ぐに謝罪したが、ウクライナの日本への無理解と不勉強ともしかすると本音が出た形だ。

確かに日本人はウクライナのことは知らない。しかしそれ以上にウクライナ人いや欧米人は日本やアジアについて無知である。日本人がヨーロッパに行くと中国人と間違われるし、そもそも日本と中国の違いも分からないことが多い。

ある知り合いは開戦当初に数万円ウクライナに寄付をした。
「自分に出来ることはこれぐらいしかない」と言っていた。純粋な気持ちからの行動だろう。しかしその金で救われる命もあれば、もしかすると奪われる命もあるかもしれないとは考えなかったのだろうか。

さて「冷笑主義」などと後ろ指さされそうであるが、僕は日本は当然ウクライナを支援するべきだと考えている。

それはプーチンが悪だからではない。ゼレンスキーが正しいからでもない。
欧米と歩調を合わせることが日本にとっての国益だからである。とくに同盟国であるアメリカとの関係を損ねてはならないのである。

これは日本にとって選択肢の限られた「外交」であり、「外交」の延長線上に「戦争」がある。もう日本もその舞台に乗せられている。

ウクライナから感謝されないなんてどうでもいいのだ。

動物愛護ってなんでしょうね

最寄り駅への道の途中に野良猫がいる。住宅地と畑の境のあたり。
いつも2匹の猫がその辺をうろうろしている。近づくと逃げる。最近は野良猫とは言わず、地域猫と呼ぶらしい。餌などはどうしているのか分からないが、健康そうである。子供の頃はよく野良の犬猫がいたもんだが、もはや滅多にお目にかからない存在になっている。その猫の人間にこびず自立している様が好ましい。元はペットだったのかもしれないが。

犬猫は人間によって品種改良され多様な種類が作り出されてきた人工物に近いもので、特に日本においては管理が行き届いている。寒さに弱い犬は服を着るし、みんな屋内で人間様と同じ環境で過ごしている。驚くべきことに乳母車のようなものに乗せられ人力で運搬される犬すらいる。

犬猫の殺処分に反対する団体が犬猫を引き取り、里親を募集したり譲渡会を催したりしている。確かに殺しちゃかわいそうだ。

しかし犬猫を愛する人達は愛犬や愛猫に対して去勢手術や不妊手術をほどこすのである。当然犬猫の意見は聞いてはいない。

動物の愛護者を自認しつつ、生物としての本能である生殖行為を人間の都合で奪うのである。罪深い行為だと思う。しかも犬猫はそのことに無自覚かもしれないので垣根は低い。しかもオスの犬は去勢手術をするとおとなしくなるとか病気を防ぐためなどと勝手な理由をつけて。

ここに矛盾を感じないのは、犬猫は生き物ではなく工業製品のごときものだからである。

昨日仕事帰りに猫の死体を見た。傍らに発見者と思われる若い女性がおりどこかに電話をしていた。保険所か役所に猫の死体の処理をお願いしていたのだろう。猫は車にはねられたと思われ、道路わきで手足を伸ばして死んでいた。

それは野良猫を見かける場所の近くで、死んでいたのはあの猫の片割れだったかもしれない。だとすれば、可哀想ではあるが人間の都合で工業製品のように扱われる猫とどちらがしあわせだったのだろうかと考える。まったく詮無いことですが。

「進撃の巨人」のリアルに負ける言論界

壁の中で暮らす人類と巨人たちとの戦いを描いた「進撃の巨人」。
物語の後半では、壁の外の世界が描かれ、今まで正義だった主人公たちは悪になる。

戦争状態ではそれぞれに正義がある。自分たちの国や生活を守るためなら、他国民を虐殺することも正義となる。誰しもが納得する善悪なんてないし、話し合いで解決できないことばかりである。作中の登場人物は常に悩み苦悩する。

こんなシーンがある。

巨人との絶望的な戦いに挑むにあたり司令官が兵団を前にして演説する。

この戦いに負ければ人類は土地を奪われる。すると狭い土地で食料の奪い合いが起き人間同士の争いで皆死ぬことになる。ならばここで戦って死ねと。

お国とか家族とか大義のために死ねというのではない。戦って巨人に食い殺されるほうがマシだということである。

おそろしい漫画だ。これが少年誌で連載されていたのだから本当に凄い。漫画、アニメは日本の誇る文化だと痛感する。日本映画界は腐ってますが。

ウクライナ情勢を巡り専門家やジャーナリストの意見をよく耳にする。メディアで主流となっている論調は反ロシアでウクライナに同情的である。高度な専門性を有しているとはいえ軍事専門家や国際政治学者だって実際に戦地に行ってはいないわけだし、ポジショントーク感もあるし信頼に値するかは分からない。

一昔前は軍事評論家なんかは紛争時に出てくる変人扱いであったし、保守系の論客も地位は低かったわけで、その層のリベラルに対する復讐が始まった気もする。

もちろん先に侵略を開始したロシアが悪いのは分かるし、無慈悲な攻撃も非難されるべきである。しかし玉砕覚悟で国民に戦いを強いるウクライナのやり方にも賛同できない。もともとウクライナも親ロシアと反ロシアに分裂しており不安定で、ロシアの侵略大義名分を与える土壌があったというのもある。僕もロシアが悪いと考えているが、判断を保留している部分もある。

「進撃の巨人」を多感な10代で読んだ若者はウクライナ情勢やそれにまつわる報道をどう思っているのだろう。専門家やメディアが作り出す言論より、「進撃の巨人」のほうがリアルに戦争の悲惨な側面を描ききっていると思うからだ。

ああ今の若者はテレビ見ないんだったと気づいた。SNSも自分にとって必要な情報しか拾わない。なるほど若者はどんな方向であってもプロパガンダに流されにくいといえるだろう。ならば日本の将来は明るいと思う。

狂人相手に「核抑止」は成り立たないのでは

ウクライナ戦争でいやおうなく「核抑止」がクローズアップされている。
僕は核抑止という概念は冷戦時代のなごりでしかなく無意味になりつつあると思っている。前回のブログで書いたが、威力が抑えられた小型核の登場により、使用へのハードルは低くなっていると思うからだ。お互い核を持ったとしても抑止力にはなりにくい。
加えて核兵器だけが大量破壊兵器ではないので特別扱いするのもヘンである。核はだめだが、通常兵器は問題ないというのもおかしい。

ひとつの都市を壊滅させ大きな被害をもたらす戦略核兵器についてはどうか。
ひとたび使用したら、核兵器の応酬となり世界に壊滅的被害をもたらすといわれる。なので使用をためらうという理屈。しかしこれは核兵器の恐ろしさが共有されていてこそなのである。
つまり核兵器は人道に反する恐ろしい殺戮兵器だからお互いに使用してはいけないという価値観を敵国も持っていることを期待してるわけである。

これでは憲法9条があれば他国は攻めてこないという平和論とたいした違いはない。核抑止も憲法9条維持も「平和ボケ」から導き出されるものではないか。

「プーチンは狂っている。何を考えているのか分からない」と識者は言う。ウクライナが核を放棄していなければ、侵攻はなかったかもしれないとも言う。その反面核兵器の使用に関してはプーチンは常識人であると期待しているのである。
プーチンがおかしくなっているのなら、いつ核兵器でウクライナやヨーロッパを焼き尽くしてもおかしくないのではないか。

日本だってひとごとではない。ロシアも北朝鮮も中国も核保有国である。近い将来、日本が核保有に踏み切ったとして、周辺国は「常識」を持っているだろうかと疑問が湧く。核抑止なんて絵に描いた餅である。

とはいっても何もしないわけにもいかず、核保有や敵地攻撃能力についても議論し検討しなければならない。もし地球に核兵器がなくなるとしたらもっと破壊力のある兵器が開発される時だろうし、世界は単に残酷なのだ。

岸田総理でいいと思う。もはや戦時下なので

長引くウクライナ戦争により、日本でも様々な価値観が変化しそうな感じである。
憲法9条に象徴される観念的な平和主義は力を失い、少し前まで批判の対象であったリアルな現実主義が幅をきかせるようになってきた。左派の人文系は沈黙しているに等しく、保守主義者に場所を明け渡しつつある。
長いこと批判の対象であった保守系の論客の復讐が始まったかのようである。1億総「小林よしのり化」も近いかもしれない。

今までタブーであった核の議論ですら解禁されそうな勢いである。
ウクライナが核を放棄したからロシアに侵略を許す結果となった、ウクライナが核を持っていればロシアは報復を恐れて侵略を思いとどまっただろうという「核抑止」論が叫ばれ、日本も核保有について議論を始めるべきだという。

僕は「核抑止」は有効ではないと考える。1発の核兵器が使用されたら最後、報復が連鎖し世界は終わるという冷戦時代の古い考えに立脚しているからだ。いまは核に変わる大量破壊兵器も数多あるし小型核もある。威力の抑えられた核ミサイルを威嚇として使用する場合、「抑止」は働かないだろう。そうは言っても核について議論すらしないというのは怠慢でしかないが。

ウクライナ戦争でNATO諸国は、抜け道だらけの経済制裁を行い、武器を間接的に支援しゼレンスキーを引かせない。

実際にドンパチしなくても、外交戦争や経済戦争そしてもっとも苛烈な情報戦争も各国の利害関係の中で行われていて、関わる国は戦争当事国である。日本も例外ではない。もう参戦しているのである。
ゼレンスキーに代表される各国のリーダーもまるで戦時下の振る舞いである。力強くメッセージを発し、高揚感が伝わってくる。

さて我が国のリーダー岸田総理はどうか。

総裁選では「聞く力」をアピールし「政治は全員野球」と協調性を売りにして、可もなく不可もない無難な始まり。その後も大きな失点はないが成果も見えないという感じ。頭はいいんだろうけど、器が小さいというか、答弁も何をいっているのかよく分からない、北朝鮮がミサイルを連発しても、遺憾砲を遺憾なく連発する。「新しい資本主義」とは……、なんだか分からない。

記者会見も下を向きながら原稿を見てぼそぼそ喋る様は「小役人感」にあふれている。元俳優として巧みに世界に訴えるゼレンスキーとは大違いである。しかしNATO諸国の経済制裁に素早く同調し、連帯のメッセージも速やかに出している。少ないとはいえ難民の支援も着手した。しかし評価されない星の下に生まれたのか。

今は戦時下ともいえるわけで、そういう時はスピーチが上手く、力強いポピュリストが求められる。その究極は、民主主義が生んだ独裁者アドルフ・ヒトラーであると考えると、日本のリーダーは地味な岸田総理なので安心である。これからも慎重に地味に事を運んで欲しいものである。

ポピュリストではなく地味で小役人っぽい行政の長たる総理大臣がトップに立ち、それで平穏であるのが日本の強みだと思うのである。

大江千里「Senri Oe Singles」発売ですと…買おうか悩む

今一番好きなミュージシャンは平沢進、若かりしころは大江千里も好きだったという、変態的音楽趣味を持つ中年男性はわたくしです。以前も大江千里について書いたことがある。

www.koketumarobitu.com

僕が高校生から大学生くらいのことが大江千里の絶頂期だったと思うのだが、そのころ男で大江千里が好きというのはかなりレアで、周りから理解されなかったなあ。

その頃はエピックソニーに代表される音楽文化が花盛りで、佐野元春、渡部美里、TMネットワーク、岡村靖幸などが活躍していた。大江千里はアメリカに渡りジャズに転向したが、その世代のミュージシャンはまだ現役でやっている人が多くてびっくりする。メガネ男子のベンチマークであったスマートな大江千里がなぎら健壱みたいになったのもびっくりだが。

僕の中では大江千里はキング・オブ・ポップ・ソングライターなのである。
特にピアノの弾き語り曲は至高である。恋愛の歌が多いのだが、歌詞のなかに世界を俯瞰する視点が盛り込まれることが多い。恋愛を通して現実を見ているという感じが良かったのである。

ただシンガーとしては個性的で評価に困ってしまう。ネットなんかではずばり「歌が下手」と言われてしまう。ファンとしては慣れてしまっていて、よく分からない。

ところが不思議なことに、ネット動画などで過去のライブ映像を見ると印象が違うのである。CDではへなへなした歌唱でも、ライブ映像でみると、力強く明瞭な歌声なのである。いったい何なんだ大江千里。

そして今回デビュー40周年を記念して「Senri Oe Singles」が発売される。シングル曲集である。初回生産限定版が5枚組!通常版は2枚組。
限定版の5枚目は他の歌手に提供した曲となっている。大江千里の歌唱ではないようだ。

ほとんどの曲はCDを持っているのだが、初期のころのCDは音質が悪い。特にファーストアルバムなんて酷い音質なのである。シングル曲がデジタルリマスターされBlu-spec CD2仕様で発売されるというのはなかなか魅力的である。買うとしても通常版にするかかなあ。限定版高いし。

ヒラサワ沼から一時的脱出を試み、人知れず大江千里に漬かるのもいいかなあ。春だし。どちらにしてもマニアックな楽しみなのです。うへへ。

ノーマスク運動は市民運動の敗北を象徴している

新型コロナでマスク着用は「国民の義務」となった。通勤電車でも皆マスクをしていて使用率はほぼ100%。日本人って凄い。僕も外出の際はマスクを使用することが当たり前となった。従順な良き国民なので。

とはいえ、いつまでもマスクを外せないのはイヤだなと思う。コロナ対策においてマスクが一定の効果があるのは確かなんだろう。そこに疑いがあるわけではない。

しかしマスクの効果を訴える意見には、マスクが新型コロナ対策以外にも効果があるというものもあり、気管支系の疾患や普通の風邪が激減したという。おそらく花粉症予備軍にもなんらかの効果はあっただろう。そうなると話が少々違ってくるのではないかなあ。

マスク生活を続けることで空気中の雑菌やウイルスが入って来にくくなり、人間の持つ免疫機能が弱体化してゆくのではないかと思う。特に育ち盛りの子供たちの将来に大きな影響があるのではないかと考える。このままでは生物として不自然になってしまうのではないかとも思う。

一部のアジアを除く世界では新型コロナとの共存を選んでいる。
個人の権利を大事にする欧米では元々マスク着用は徹底されていなかったが、さらにノーマスクという「普通」に回帰している。
対して日本は個人が個人の権利を主張せず集団の利益を尊重する。まあそこが日本人の良さではある。平和で安全なディストピア。
このまま数年後、世界の中で日本だけがマスクをやめられない国になったら面白い。

この「公」を大事にして「個」を捨てるという動きはコロナ禍で大きなうねりとなって顕在化したように見える。

コロナ禍の1年目には通勤電車でもマスクをしていない人が数人はいたが今ではノーマスクはありえない。もしノーマスクで公共の場にいたらその人の思想信条は関係なく「陰謀論者」だと思われてしまうからだ。

一部には過激なノーマスク運動を行う団体もあるようだ。だいだい反ワクチンとリンクしており、中にはQアノンだのディープステートだのは荒唐無稽なトンデモ陰謀論に染まる者もいるという。こういった運動団体のせいで本来濃淡あるはずのノーマスク運動や多様な意見までもが白眼視されてしまうというオマケ付き。

しかしアホなノーマスク運動であっても、かつて賛美されていた「市民運動」である。

マスコミやリベラル言論人は、安保反対を叫んで火炎瓶とゲバ棒で機動隊と戦争ごっこしたり内ゲバで仲間を殺したりした全共闘運動を批判しないし、オウム真理教を評価していた。そして自衛隊や米軍に殺されると基地反対を叫ぶ活動家を陰謀論者とは言わない。

ならばノーマスク運動も「市民運動」としての側面は評価するべきなのだが、そういう人はいない。かばう者もいない。こうなるとリベラルな市民運動の敗北といえる。

日本は「個」や「市民」を捨てて「国家全体主義」になりつつあるなあと感じる。コロナやウクライナ戦争が炙り出したリベラルの敗北ともいえるのでしょう。

平沢進 INTERACTIVE LIVE SHOW「ZCON」感想と例の話

平沢進が INTERACTIVE LIVE SHOW「ZCON」を開催した。
平沢進の代名詞であるストーリー仕立てになっているライブである。ここはなんとしても配信で見ないといかん。と言うわけで全3ステージを配信で鑑賞した。
事前に特設サイトが解説され世界観の説明が掲載された。しかし情報量が多すぎて3回読んだが理解できない。まあいいか。

ライブ前に公式ツイッターからお知らせが届く。
配信で参加する「在宅オーディエンス」にも「天候技師」としての作業があり、ライブのストーリー展開に参加できる。その案内である。

結果、メインPCでライブ配信、サブPCで天候技師作業場(Googleフォーム)と進捗状況(Youtube)、iphoneで公式ツイッター(指示を受け取る)と3台のデバイスを駆使してのライブ鑑賞となった。これではオタクかハッカーである。

平沢進はこういったインターネットを活用した双方向ライブを1994年からやっていた。

その頃はまだインターネットなんて一般的でもなく、せいぜいパソコン通信を一部の人達が愛好していたぐらいだろう。どうやっていたのか全く分からん。平沢進の先進性は恐ろしいものがある。やっと時代が追いつき始めたのかもしれない。

いざライブを鑑賞。ストーリーは情報過多であり、会場の観客へ与えられる選択肢は難解で、配信の天候技師は忙しすぎであったが十分に楽しめた。
ストーリーの結末は1回目はバッドエンド、2回目はややバッドエンド、3回目でグッドエンドとやや出来すぎな展開であったが、結果オーライである。

すいません。こんな書き方では分からない人には分からないですよね。ですが説明するのがとても大変なのです。堪忍してつかあさい。

肝心の音楽は、最新アルバム「BEACON」の曲が中心で構成されていた。「BEACON」は映画のようなインタラクティブライブ用に制作されたサウンドトラックアルバムだったようで親和性が抜群である。
平沢進の声も良かった。実は最近のライブを見ていて平沢進の声の衰えを感じていたのだが、杞憂であったようだ。その力強い歌声は終了後のMCからは「まだまだやれるぜ」という余裕すら感じられた。

「もう大丈夫ですよ安寧の人」という台詞もアルバムでは皮肉だと思っていたのに、ライブではやさしく穏やかな意味を帯びていた。

ライブは大成功だったと思う。次があればぜひ会場で参加したい。

 

そして今回のライブにも関わっていることなので例の話にも触れる。
平沢進と「陰謀論」についてである。

今年に入ってから平沢進がツイッターで「陰謀論」的な発言を連発しファンの間で物議を醸したのである。マスクをする人々を「奴隷」と書き、ウクライナに支援する人達を「ネオナチに募金するグロテスクな善意たち」と書いた。以前からもいわゆる「Qアノン」を匂わせる発言を度々していたこともあり、「匂わせ」くらいで済んでいたのだが、さすがにネオナチ発言の影響は大きかったようだ。古参のファンからも批判の声が上がったようだ。

今回のライブはそういった不穏な空気のもと行われた。
もしかすると今回のライブで陰謀論を盛り込んだストーリーを展開しファンを置き去りにし、これを期に音楽活動から一線を引くのではないかと僕は考えていたのである。

結果としては、SF的なストーリーに「匂わせ」以上のアブナイ要素はなかった。
正しさを押し付けてくる物を疑えと、つまり「平沢進」自体も疑えというメッセージだと思った。そうするとツイッターでの「陰謀論」発言もライブの前フリかと思いたいが、おそらくそうではないだろう。

過去にもアポロは月に行ってないとか、石油は地球由来であるとか、9.11のテロは自作自演であるとかを匂わせる楽曲を作っているからである。何を今更とも思う。

平沢進は現在の定義では陰謀論者である。本人にとっては正しい思考であっても、そう言われるのは自覚しているだろう。過去にBSPで「自分は本当に危険であるので人に安易に勧めるな」と言っていたこともあるのだし。

いつの時代でも一部のアーティストは危険な考えを持っていた。そういう尖った人達は市場原理の中で牙を抜かれ均質化矮小化してしまい、みんなフツーの人になってしまった。平沢進はそこに迎合していない絶滅危惧種のアウトサイダーとして目立つ存在になってしまったのだ。
そういうタイプは本来なら成功はしないのだが、マイナーゆえの戦略が大当たりし、ファンが増えすぎたのである。商業的な成功は悪いことではないが、注目されすぎるとキャラクターとのバランスが悪くなる。

平沢進はとっつき易く見えることもあるが常にナイフを忍ばせている危険な男だ。その危険な部分とエンターテイナーとしての部分を薄氷を踏むように渡っている。

危険な部分を見えなくすればファンは安心だろうが、そのような安易なことはせず、平沢進はこれからも危険部位をほのめかせながら活動してゆくだろう。ファンは弄ばれるし、付き合うなら相応の覚悟を持てということだろう。平沢ファンに安寧の時は来ないのだ。望むところよ。