空転日記

はばかりながら はばかる

言論の自由なんてない

ドイツでは言論や思想の自由はない。

「民衆扇動罪」により、ホロコーストを否認したり、ナチスを礼賛したりすると犯罪となる。そのような行動は民主主義を否定することとされ刑事罰が課せられるわけだ。

指をそろえて手をまっすぐ上げて挙手すると「ナチス式敬礼」とみなされ、禁止されている。高校球児の選手宣誓はできないのだ。

数字の「18」も多用できない。アドルフの「A」が1番目でヒトラーの「H」が8番目だからである。日本では「18」は野球のエースナンバーなんだが。「88」も「ハイルヒトラー」を表すとされる。

ここまで厳しくしないとかつてのナチスのように民主主義を否定する輩が現れるということか。

 

民主主義を否定することを認めない民主主義が、はたして民主主義なのだろうか疑問である。しかもナチスはきわめて民主主義的な手段でドイツを掌握したわけで、こうなると亀田兄弟がケンカしているようなものだ。

もちろん僕はナチスを礼賛したいわけではないし、民主主義が正しいとも思ってはいない。世の中に言論の自由なんてないと言いたいだけだ。

 

国会議員が、北方領土を戦争で取り返す是非を問い、問題になっている。問題になるのは日本が戦争を禁じられた敗戦国だからである。

北方領土はソビエトによって武力で奪い取られたのである。それを平和的な交渉で解決できるわけがないのだ。敗戦国ゆえこの議員の発言は問題視される。ロシアの政治家が戦争に言及しても何の問題にもならないだろう。国会議員であれば、戦争は外交の一手段であるという認識を持つべきで、そうでないと独立国家としては不安である。

もちろんこの議員の発言はTPOを間違えているのでよろしくはない。

日本では戦争や核兵器保有に関して肯定的な発言はできない。やはり言論の自由はない。ドイツと違って即逮捕とはならないだけ日本は甘い。

 

テレビや新聞では創価学会やネズミーランドのことを公然と批判したりしない。ユダヤ人やイスラエルに対しても同様である。まあメディアはくだらない「自主規制」で自らを縛っているだけで「言論の自由」以前の問題だが。

 

世界中どこへ行っても「言論の自由」なんてないのだが、それをあると嘘をつくのが民主主義である。

いっそ「言論は制限される」と認めてしまったほうが、秩序が保たれてスッキリするし教育上も良いのではないかと思う。

 

 

 

 

「しゅうきんぺー」でよいアルヨ

米中の経済対立が長期化し、もはや泥沼の経済戦争となってきた。アメリカは中国からの輸入品に高い関税をかけ、中国もやり返し、交渉は暗礁に乗り上げている。米中二国間の問題が世界経済に大きな影響を与え、軍事的な衝突にまでいくのではなどと言う人もいる。この米中関係が日本にどのような影響をあたえるのか考えてみた。しかし考えてみたところでさっぱりわからん

 

米中関係の悪化によって日本も重大な影響を受けるだろう。もしかするとチャイナリスクから解放されて日本にとって良い時代になるかもしれないし、米中戦争に巻き込まれて焼け野原に戻るかもしれない。

 歴史を振り返ってみる。

日露戦争で日本が勝つなんて想像できたか?

オーストリアの皇太子が殺されたサラエボ事件が第一次世界のキッカケになるなんて、想像できたか?

今日のラッキーアイテムがヘアアクセサリーだなんて想像できたか?

 

これからは想像もつかないことがおきる時代になると覚悟を決め、知るは大事と、新聞なんぞを読み比べてみる。

各紙、米中の対立をお得意の「どっちもどっち論」で無難にまとめている。中国も悪いがトランプも悪いと、これでは何も言っていないのも同然である。

 

それより気になったのは各紙の中国の国家主席名の表記の仕方である。

朝日「習近平(シーチンピン)」日経「習近平(シー・ジンピン)」、この2紙は中国後の発音を併記しているのである。残りの大手紙ではこのような表記は見られないようだ。無駄に字数を浪費するし読みにくい。

そしてなんかヘンである。朝日新聞で中国語の発音を併記していても、系列のテレビ朝日では「しゅうきんぺー」と発音しているからだ。

 

たとえば中国語で、安倍総理は「あべしんぞう」とは発音されず、「アン ペイ チン サン」と発音される。日本語の発音なんて気にしない。そもそも中国語は日本語のひらがなカタカナ表記のように、外来語をそのまま発音する方法がない。

アメリカでは「シンゾウアベ」になるだろう。

個人名であっても、それぞれの国の言語の表記の仕方でいい思うのだ。

日本では日本語読みをして「しゅうきんぺー」でいいじゃん。

 

無駄に中国語の発音を併記するのは中国への忖度の結果か。たしかに朝日新聞は常に中国寄りの論調である。「どっちもどっち論」を展開し、「だがしかし」とアメリカ批判で締めるパターンが王道である。安定の伝統芸能といった感じだ。

滅ぶ前に世界文化遺産に申請してみたらどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10歳のYouTuber

沖縄の10歳のYouTuberが話題である。

「少年革命家」を名乗り自由を求めて学校に通わない選択をしたという。「少年革命家」というのはなかなかインパクトがある。「ホームレス中学生」くらいには。大人になって革命家を名乗っていたらただのバカだか、子供ならよし。しかし物議をかもしているのは、どちらかといえば心理カウンセラーを名乗る元ヤンの父親の存在である。

 

この少年革命家は行きたい時だけ登校し、行きたくない時は学校に行かない「自由登校」をしており、「不登校は不幸ではない」と発言している。そんな息子を父親は全面的に擁護し、息子を金儲けに利用をしているという批判も反発している。

いわく「子供だって、自由に生きる生き方がある」、「宿題をしたくない子供に強要する権利が学校や親にあるのでしょうか」、「閉鎖的な場所(学校)での出会いで学べる事より、自らの足でいろんな人に会いに行った方が多くの事を学べるのではないでしょうか」とコメントしている。

 

かつての管理教育に対する批判を思い出す。これが官庁を動かし、悪名高き「ゆとり教育」を生みだすのだ。ゆとり教育はいまでこそ失敗の烙印を押されているが、よいこともあったと思う。それは才能のある天才には好都合な教育だったからだ。

現在、色々な分野でかつてないほど「天才」と言える若者たちが活躍している。大谷翔平、池江璃花子(闘病中だが)、将棋の藤井聡太、その他にも卓球やバドミントンの選手たち。これはゆとり教育の成果ではないか。

特定の分野の才能をのびのび伸ばすには、余計なことはしなくてもよいゆとり教育は好都合なのである。しかし「天才」は一握りしかおらず、ほとんどの人間が行き着くところは、ありふれてどこにでもいる、特筆する才能などない「凡才」である。学歴や就職で多少の貧富の差がある程度である。

 

さてこのYoutuber君はどうだろうか。義務教育を放棄しその分野で食っていけるだろうか。少年革命家を名乗るなら少しは勉強しないとなれないと思うが。

勉強もしないで「いやな事はやらず、やりたい事だけやる」というのでは、犬や猫と一緒である。しかしそんな生き方でも「多様性」を重視するという観点では尊重されるべきではある。

確かに方程式が分からなくても国会の仕組みが分からなくても、そんなに困らない。しかし人間は生きるために不要な難しいことを勉強したり、知識をつけることに面白さを感じる稀有な生き物なのである。暴走族だって難しい漢字を使って名前を付ける。あれは「難しさ」に対する憧れである。

 そういう面白さを放棄して犬や猫みたいに生きてゆくことのほうが辛い道なのだ。そういうことが分かるのも教育の賜物である。