NHKスペシャルで放送された「“冒険の共有”栗城史多の見果てぬ夢」を見た。昨年エベレスト登山中に亡くなった登山家のドキュメンタリーである。栗城史多は「単独・無酸素」を売り文句にする登山家で、その登山の過程をSNSなどでライブ中継するというスタイルで賛否両論を呼んだ。2012年のエベレスト挑戦で両手の指を凍傷で全て失ってしまう。その後も登山を続け2018年に再びエベレストに挑戦したものの体調を崩し下山中に遺体で発見される。
番組で印象的だったシーンは栗城史多が登山中に携帯するカメラに不備があり、戻ったキャンプで「遊びにきているなら帰れ」と、担当スタッフに怒鳴りつけ叱責する場面である。もちろん一歩間違えれば命を失うエベレストではあるが、それに加えて、もう後がなく失敗できないという危機感や焦燥感が感じられた。
登山は金がかかる。栗城史多のようにチームを組んでスタッフを帯同させるのなら尚更だ。したがって企業スポンサーを募り、SNSで中継しライブ感を出し注目を浴びねばならない。栗城史多自身も芸能事務所に所属し普段は講演活動などを行なっていた。
栗城史多は一人の登山家である前に「チーム栗城」の看板役者であったのだ。協賛企業や所属事務所からのプレッシャーを受け、その冒険を成功させねばならぬ、つらい立場だったのだろう。
栗城史多が世間から注目されるきっかけは、メディアによって「ニートが山に登る」というコンセプトで紹介されたからである。自身は東京に出てきて希望のないバイト生活をし人とあまり関わらず引きこもり気味だったというが、「ニート」ではない。そもそもの出発点がメディアが作った虚像なのである。指を失ってなお栗城史多は自ら作った虚像を追いかけ続けたように見える。いやむしろ指を失ったからかもしれない。
満たしたかったのは架空の自分に対する「承認欲求」とみえる。しかしこのような「承認欲求」はSNS時代において誰でも持つし、ネット上で「架空の自分」を演じるのはよくあることだ。徹頭徹尾、栗城史多はありふれた普通の若者を演じていたのかもしれない。命をかけてその「承認欲求」を満たすことを自分に課したのだ。
そして大勢のスタッフに囲まれているのに孤独に見える。アルパインスタイルで単独行の登山家より孤独感に見える。
最後のエベレストへのアタックも安全なルートを選ばず、危険なルートをあえて選び最悪の結果となった。指がないハンデも考慮し周りのスタッフは安全なルートをなぜ勧めなかったのか。本人の希望もあったろうが、安全なルートでは他の登山客などもいるのでSNS映えしないという判断だろう。周りのスタッフは止めるべきだったのだ。そして栗城史多をスターに仕立て後戻りできなくさせたのはメディアである。
指を失った時点で方向転換して、低山の魅力を伝えるとか、障害者登山のサポートをするなどの活動にシフトすればよかったのにと思う。死んでしまったら終わりなのだから。