射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

村上春樹に芥川賞あげておけばよかったのにね

ノーベル賞のうち文学賞と平和賞は廃止したほうがいいと思っている。

文学賞は選考基準が主観的に過ぎる。ボブ・ディランにあげたことすらある。日本でいえば吉田拓郎だぞ。それに受賞者は反対制的で左翼的な雰囲気の人達ばかり。イデオロギー臭がなく純粋な文学者であるカズオ・イシグロの受賞は画期的ですばらしかったが、ノーベル賞的には他にいい人がいなかったんじゃなかろうか。

平和賞は欧米列強の影響と支配を増長させるものだ。欧米列強って戦時中かといわれそうだが、ずっと戦時中だと思う。国連は相変わらず戦勝国中心の「連合国連盟」であるし。またドイツと組んで攻めちゃうぞ。イタリアはいいかげんだからいいや。

のっけから話が脱線している。

なんだかんだと今年もノーベル賞の季節である。
なぜか毎回村上春樹の文学賞受賞が話題となる。受賞を逃し落胆するハルキスト達は秋の風物詩となっている。

村上春樹自身は、ノーベル賞なんて興味ありません、テレビも見ません、ハルキストなんて知りませんといった感じだが、絶対欲しいはずだ。

村上春樹の創作キャリアの変遷(デタッチメントからコミットメントへ)や、薄っぺらい自虐史観に立脚する左傾化した発言などは、明らかにノーベル賞を欲しがっているからではないか。
初期の頃は「イデオロギーなんてくだらないやれやれ」といったドライでクールな作風だったのに。「総合小説」なんで言い出したりもした。日本のドストエフスキーになりたくなっちゃったのだ。

村上春樹の処女作「風の歌を聴け」と2作目「1973年のピンボール」はそれぞれ芥川賞を逃している。芥川賞の選考委員がそのメタファーにあふれた散文詩のような作風に「文学性」を認めなかったということだ。あげときゃよかったと思っても後の祭り。

今でこそ芥川賞は話題ばかり優先して権威はない。
しかし当時はそうではない。芥川賞作家という肩書きで一生食っていけたのである。「パニック」で芥川賞を受賞した開高健がいい例である。芥川賞受賞の後、ベトナム戦争の取材やアマゾン川で釣りをしてルポを書いたり、やりたい放題である。
文学界の西原理恵子である。

村上春樹は逃した芥川賞に未練があったようで、明らかに芥川賞狙いの作品を書いたりしている。その作品を練り直したのが谷崎潤一郎賞をとった「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」である。

デビュー作の「風の歌を聴け」だって群像新人賞をとっているし「ねじまき鳥クロニクル」は読売文学賞をとっている。しかーし芥川賞は取れなかった。

もし村上春樹が芥川賞をとっていれば、早くから権威となり文学界の大御所としてふんぞり返っていただろう。永遠の文学青年にならなくてよかったのである。
そのおかげで、秋の風物詩になれたのだが。