空転日記

はばかりながら はばかる

さようなら村上春樹

村上春樹の小説の主人公のタイプはだいたい決まっている。

独身男性で経済的にも思想的にも自立していて社会とは適度な距離をおいて関わる。引きこもるわけではないが、積極的に人と関わらない。

ライフスタイルはこんな感じが多い。あまり外食はしない。いつもきちんとした食材を買い自炊している。スパゲッティをゆでるときはきちんとソースをつくる。携帯は使わない。洗濯物にはきちんとアイロンをかけ、クリーニング屋も利用する。車は人からもらった古いものに乗っている。クラシックやオペラのレコードを聴き、こぢんまりとした居心地のよい住居に住んでいる。独立した「文化的自営業」である。なぜか女性には困らない。そして自分と違う価値観を声高に批判したりしない。関係ないからだ。このような主人公が「望むと望まないに関わらず」さまざまな不思議な出来事に巻き込まれていく。

日本での評価も高いが、ライトノベル的なエセ純文学なんて評価する人もいる。批判されるのはいいことで、日本の文壇から距離を置いているからだ。日本では文壇の大物は批判されない。たとえば大江健三郎をけなす人はいない。

そして海外では日本以上に評価が高い。

第2次大戦後、欧州はまとまった共同体になろうとした。アメリカ、ソ連の台頭で行き詰まり共倒れになるからだ。しかしその共同体も今やガタガタだ。人々は国家同士の枠組みに翻弄され抗えない。とりあえず自分たちは豊かであっても、国境の向こうでは戦争が起きているかもしれない。

アメリカも不自由な国だ。そもそも先住民を虐殺して作られた歴史のない国家だ。いつもなにかに怯えている。だから銃を持ち自衛しなければならない。無理して愛国心を持たねばならないから大統領選挙は異常に熱狂する。

中国も共産党の独裁が続き、自由は制限されている。いつ周辺国と紛争があってもおかしくない。

この先は分からないが、日本では良くも悪くもそんな危機感はない。

村上文学は、海外の読者には渇望しても手に入らない、国家や共同体に左右されない自立したライフスタイルを提示してくれるものとして、高い評価を得ているのだと思う。

僕は高校生のころから村上春樹を読んでいる。図書室にあった「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を昼休みに通って読んだのを初めに、エッセイなども含め、ほとんどの作品を読んだ。最近の作品は物語が難解だが、今まで読んだ事のない物語を体験しているという高揚感はあり楽しめた。「1Q84」までは。

しかし「騎士団長殺し」を読んで失望した。物語も主人公もかつての村上作品のセルフパロディにしか見えない。現代の物語なのに80年代に引きこもっているような作品世界だ。幽霊のような「生きていない」登場人物が、閉塞した物語の中でつまらなそうにしている。村上作品で初めて途中で読むのをやめようかと思った。エンディングは取ってつけたように変化を演出している。主人公に子どもが出来るのだ。

主人公は村上春樹自身で、最後に生まれる子どもはノーベル賞のメタファーだ。 

今年はノーベル文学賞はなく、村上春樹はそれに替わる賞を辞退した。もらうならノーベル賞がいい、と思ったのだろうか?それは分からない。

職業作家であるから賞をもらうことはよいことだ。そして作品を世に出し話題を提供しないと過去の人になり賞から遠ざかる。そのため出来が悪くても出版することもあるだろう。それも仕方がない。

問題は、そのためにヨーロッパのリベラリズムや世界の文学界におもねっているように見えることだ。「騎士団長殺し」の出版やメディアを通じた発言からはそういった打算が感じられて不快だ。「権力を声高に否定はしないが、距離を置く」かつての作家像、作風から変わってしまった。もう魅力的な作品は望めないと思えてきた。

もう村上春樹の新刊を手に取ることはないだろう。ありがとう、さようなら。