射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

サザエさん、もうやめていいんじゃない

なんとなく観てしまうがまったく記憶に残らない。「さーて来週のサザエさんは~」と翌週のタイトルの予告を聞いても次の回まで覚えていないので意味はない。昔からサザエさんを観るのはただの習慣で、決しておもしろいからではなかった。なぜ子供の頃サザエさんを家族みんなで観ていたのだろうか。今思うと不思議である。

サザエさんは、昭和40年代の家族を変わることなく描いてきたと評価する人が多い。「かつての日本の良心」的な考えだ。単に昔は良かったと言っているだけだが。

実際はかなり変わっている。初期のサザエさんはドタバタコメディで、タラちゃんはクソガキでマスオもすぐ怒っていた。

僕が子供の頃には基本的には今とほぼ同じ作風になっていたが、波平やマスオはよくパチンコに行っていて、景品をいっぱい入れた紙袋を抱え帰宅するシーンがよくあった。そして2人は煙草を吸っていた。居間の円卓には灰皿があったし、寝ているタラちゃんの横でサザエと会話をしながらマスオは煙草をふかしていた。畳の上に灰皿を置いていた。まあ当時はそれが当たり前だったので悪いことではない。

今ではパチンコも煙草もやらなくなり、タラちゃんはいい子になり児童虐待を思わせる描写もない。つまりサザエさんという作品は時代に迎合し無難に調整してきたのである。その結果、昭和40年代ではなく現代でもない、奇怪で歪な世界になってしまった。

さらにサザエさんは変化している。スポンサーが1社提供ではなくなった。東芝が傾くなんてさぞサザエさん一家も心配だったろう。そしてストーリーに多少最近の風俗も取り入れるようになり、脇役キャラに変な個性を持たせて話題になっている。なぞの行動をとるホリカワくんやゲスなノリスケなどである。登場人物はお馴染みの泥棒でさえいい人なのだが、少し気持ちの悪いやつらが混じっているという、善人と変人しかいないカオスな世界観である。善悪がはっきりしているほうがいっそ気持ちがいいと思うのだが、変人というのは始末が悪い。はっきり言うと、世界観や主要な登場人物に魅力がなくなり迷走し続けてきたのだ。サザエさんはちびまる子化して、ちびまる子はサザエさん化しているが、変人度の質でちびまる子の勝ち。

はじめから一貫して少々毒のある長谷川町子の作風で作り続けていればよかったのにと思う。長谷川町子も模範的なサザエさんの作風に嫌気がさし、いじわるばあさん作ったのだから。

もうサザエさんはやめていいのではないかと思う。かわりに伊藤理佐の家族ものとか制作したほうが面白いと思うのだが。