射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

コロナ報道とコメンテーター

新型コロナの影響で在宅勤務となったのでテレビ朝日の「モーニングショー」をよく見るようになった。はなからワイドショーなんてインチキだと思っているが、その程度はいかほどか確認してみようと思ったのだ。

 

基本的路線として「モーニングショー」は危機を煽り、政府対応を批判し、安倍政権のイメージダウンを狙っていた。テレビ朝日なので反安倍政権は当然であるし政府のやり方はよくなかった部分もある。しかし少々やりすぎたように思う。ここまで安倍政権批判一辺倒だとさすがに見ていて飽きてくるのである。

 

他国の芝は全て青いという感じで、韓国を見習え、中国を見習え、ドイツを見習えと他国の対応の素晴らしさを押し付けてくる。しかし結果的に日本の対応は問題なかったし他国はうまくいっていない。

 

「コロナの女王」と言われるようになった岡田晴恵さんが出演し、終始上から目線で政府の対応に物申している。当初はどの程度の規模の混乱を巻き起こすのかわからない状況で彼女の物言いは感情に訴え視聴者に受けたのではないかとは思う。

ずっと言い続けてきたのがPCR検査の拡大である。しかし精度に問題のあるPCR検査を大規模にやると混乱が予想されたし、医療の崩壊も招きかねない。

結果クラスターが発生した箇所を重点的にPCR検査して潰してゆくという日本政府のやり方が合理的ではなかったのか。

岡田氏の発言で驚いたのは「紫外線でコロナウィルスは死にます」である。夏の高校野球の甲子園大会が中止になった話題の時の発言である。発言は「だから甲子園はできます」と続く。

甲子園はテレビ朝日の親分朝日新聞が主催しているのだから忖度した発言なのである。

健康や命に関することを伝えているのに、それでは研究者として終わりである。だめだこりゃ。

実際次の放送では紫外線で全てのウィルスが死ぬわけではないと、謝りもせず、やんわり修正していた。

番組ではPCR検査は「医療ではなく社会政策」として行うべきだという理論まで飛び出した。これでは宗教である。

 

コメンテーターの玉川氏は岡田さんの主張に常に同調していた。玉川氏はテレビ朝日の社員なのだからその主張はテレビ朝日の公式見解となるはずだ。そのくせ「僕はこう思うんですけど」という。これは汚いなあ。

事実誤認があり玉川氏が番組冒頭に謝罪するということがあった。当然だが一社員の不祥事ならテレビ朝日の社長が謝らなければならない。一般企業ならそれが求められる。

 

ただ玉川氏も気の毒だなあと思うのだ。

事実をそのまま伝えても面白くない。かといってテレビ局が極端にも偏った事は言えない。だから高感度の高い芸能人などにコメンテーターをやらせて替わりに語らせるのである。問題発言があっても個人の意見ですからと逃げられるのだ。

玉川氏はテレビ局が自前で用意した身代わりなのである。可哀想な立場ではある。

 

インターネットに替わられテレビ報道ワイドショーを鵜呑みにする人はどんどん減っている。花火と同じで消える直前に最も光っているのが今なのではないか。

テレビはだいぶ衰退してきたが、今回のコロナ禍によるスポンサー離れで本格的に終わりが見えてきたようだ。

アニメの世界かここは

北朝鮮と韓国の関係がおかしくなってきた。

あ、いつもおかしいので普通というか。

 

北朝鮮が開城の南北共同連絡事務所を爆破した。爆破は金正恩の側近である金与正によって予告されていて、これにより韓国と北朝鮮の関係は20年前に戻ったと伝えられる。少し前金正恩の重体説や死亡説が飛び交ったが、このきな臭い動きと関係はあるのだろうか。

 

かつて日本でも、北朝鮮は地上の楽園と宣伝され、野党は朝鮮労働党と親密だったし、拉致問題に北朝鮮の関与が噂されても旧社会党は北朝鮮の味方であった。それが一変したのは小泉訪朝で北朝鮮が拉致を認めたことである。悪事がばれた北朝鮮はミサイルを打ちまくり核開発をほのめかすなどやりたい放題である。そして日本の社会主義運動は死んだ。

 

今回の連絡事務所爆破のニュースは金与正の写真と共に伝えられた。金与正がどういう人物なのかほとんど知られていないが、非常にキャラが立っている。弱気にみえる韓国の文大統領を冷酷に虐めそうなキャラである。感情が読み取れない。美人である。鞭が似合いそうである。そしてよからぬ想像をしてしまうのである。

まったく現実感がない作り物のような設定なのだが、北朝鮮はそれを狙っているような気さえする。

 

ずいぶん前から映画や演劇といったリアルなフィクションが衰退している気がしている。アニメ的なフィクションは人気だが。

本当はつまらないはずの現実(ノンフィクション)がありきたりの作り物(フィクション)より面白くなっているからだ。現実世界がアニメ化しているんじゃなかろうか。

 

これは流れは9.11のテロから始まったと考えている。

人種差別について

日本において新型コロナウイルス感染が落ち着いてきたら、アメリカで黒人差別反対運動が盛り上がり、それが世界に波及してきた。

アメリカのミネアポリス郊外で黒人男性ジョージ・フロイドが警察官の乱暴な拘束によって死亡した事件からはじまり、全米各地で抗議デモが発生した。デモは暴動に発展し、一時は軍の投入を検討したという。

アメリカでは警察の解体・再編の機運が高まり、コロンブス像が打ち倒され、ある音楽バンドはその名が差別を連想させると自ら改名した。

差別はいけないことである。その上で困難を乗り越える象徴として、負の歴史を認めることはできないのか。まして現代の価値観で昔のことを断罪するのはファシズムのようなものである。分析し論評する程度にしておかないといけない。負の歴史がケシカランとなれば、大航海時代以降を全否定することになり大変なことになる。

 

名作映画「風と共に去りぬ」も「黒人差別を描いていない」という理由から配信サービスから除外されたという。間接的であっても差別に加担するという犯罪的行為がこの映画から読み取れるということなんだろう。

日本でタレントや歌手が麻薬等のスキャンダルで表舞台から消えたとき、必ず「作品に罪はない」の合唱が始まる。日本の芸能界やマスコミは「風と共に去りぬ」に関しても、同じように「作品に罪はない」と擁護しないとおかしい。

そうしないと、差別や弱者の苦しみを描かない作品はすべて「罪」であるということになってしまう。日本でも当然差別はあるし、いくらでもそれを見つけることができるからだ。

 

NHKのニュースで、日本で暮らす黒人系の女性が出演し、その生きづらさを訴えていた。差別がありつらい思いをしているという。ただ在日黒人系で差別を感じてない人もいるはずだ。どういったことが差別なのかは人によりけりである。

こういう報道が過度に行われるとなにがおきるか。単なる区別が差別ではないかというを疑念を生んでしまい、結果差別を生んでしまうのだ。

 

僕は差別はなくならないと思っている。「ある程度」の差別は社会にとって必要悪だとさえ思っている。個人内の差別心というのは社会の中で個を成り立たせるのひとつの要素だからだ。もちろん犯罪的な差別行動はダメである。

「差別のない暗い社会より、差別のある明るい社会」のほうがいいのだが、こんなこというと差別されてしまうのだ。

演劇は死ぬのか?

新型コロナウイルス拡大防止のため、演劇など劇場公演の自粛が求められ、それに呼応して野田秀樹氏が「演劇の死」という言葉を使い、公演の継続を訴えた。

反響は大きく、勇気付けられた演劇関係者は公演の続行を決断し、それに反発する意見もネットにあふれた。「そんなことで死ぬなら淘汰されろ」とか「演劇人は身勝手だ」などなど。

大手資本がバックにある商業演劇は早々と公演中止を決めたところが多いが、中小のいわゆる「劇団」はおいそれと中止はできない。「自己責任論」が台頭し分かり易いバッシングの対象となった。

その後緊急事態宣言が出て、しだいに公演継続を求める声は消えてゆく。そして「政府の要望で自粛したのだから補償を」という世の風潮に合流してゆく。

 

残念なのは「演劇人」と呼ばれる人から、傾聴するに値する意見が出なかったことである。演劇は人類の歴史と共に発展してきた。

しかし、現代社会の中でどれだけ重要な役割があるものか全く聞かれない。せいぜい「学生運動の下位互換」としての演劇をとらえ、近現代的な政治運動と勘違いした意見ぐらいである。

そして若いと思われる人たちの意見は、「ギョーカイ」の内側しか見ていない。

古典や歴史を知らずに現代劇をやっている若い演劇人が「公的な補償」を求めても説得力はない。

 

有事の際に、民衆や芸術家などの表現者はどうなるのか、さんざん演劇を通して訴えてきたはずである。平和に安住せず危機感を持てと言ってきたはずである。

今回の戦争状態に準ずる新型コロナ問題だって「分かっていた」はずだ。あるいは戦争をテーマに作品を作ってきたのは、単なる平和な時代の遊びだったのか。

一部の演劇は左翼運動としての歴史を持つ。その中でテンプレとして戦争物をやってきただけである。「平和は大事」なんてみんな分かっているのだから。

 

日本は劇団が多い。こんなにあるのは世界でも日本だけである。

政情不安定な発展途上国で劇団やる人はいない。ほとんどいない。日々の生活や食べ物の心配で頭はいっぱいである。演劇ができる国は平和で経済も安定しているのである。

劇団員の多くはほぼ無給で、手売りしたチケット代が自分の収入となる。みんなアルバイトをして演劇につぎ込んでいるのだ。それでもみんなスマートフォンを持ちワンルームマンションに住んでいる。演劇業界は経済大国日本に守られている。そして演劇を作って何を発信するのか、今まで問われてこなかったのである。

公的な補償を求めるのなら、演劇も公的なものになるべきだ。権力に従えということではない。大人におなりなさいということである。

どこまでも自由にやりたいのなら、公的な補償なんか受けてはならない。現代劇は長いこと「学生運動の下位互換」としての政治運動を「なんとなく」惰性でやってきたように見える。そして若い人たちはヒエラルキーのなかでそれを「なんとなく」受け入れてきた。そのうす甘い「なんとなく」感から脱却する絶好の機会となる。

野田秀樹、ケラリーノサンドロビッチ、平田オリザらの「成功者」は演劇業界の団結を呼びかけたりしない。こういう老害を追い出す絶好のチャンスとなる。

新型コロナ後、演劇を武器にして何を発信するのか。若い才能がインターネットを利用すれば、世界を相手にできる。新しいビジネスモデルを構築できる。「劇場の閉鎖」ごときで「演劇の死」などとみっともなく怯えなくてもすむのだ。

演劇は人類とともにあり、死ぬことはない。

新型コロナがもたらす大転換

新型コロナがもたらすものは

それにしても新型コロナウイルスの影響はすさまじい。

僕の仕事も大変な影響を受けた。受注していた事業はすべてキャンセルとなり、4月からほぼ在宅ワークとなった。幸いサラリーマンで委託先から複数年で契約しているため多少の手当ての減少はあるが給料はさほど変わらない。フリーランスや個人事業主でなくて良かったと心から思う。

強制力はないにせよ「緊急事態宣言」が出て外出や店舗の営業の自粛が求められている。SF映画のようだ。そして今回の新型コロナの流行が世の中にいくつもの変化をもたらし、もうコロナ前には戻れないのかもしれない。

いわゆる左翼の大変化

連日ワイドショーや報道番組はコロナ一色である。そのほとんどはほとんど安倍首相に対する批判である。

学校を一斉休校したら、「親のことを考えていない」「意味がない」「学ぶ権利を奪っている」など。なかには「子供がいないから教育を分かっていない」なんていうコメンテーターもいた。ここまでくると憎悪表現だ。

その後、各国が休校しだすと批判はやみ、休校を解除しようとする動きが出ると、「なんで再開するんだ」と非難する始末。

まあマスコミがバカなのは今に始まったことではないし、矛盾なんか気にすまい。政府の対応に問題があることは確かだが、すこし落ち着いてから断罪すればよい。いずれにせよ政策の是非はあと半年くらい経過しないと分からないのではないか。

驚くのはいわゆる左翼と呼ばれる人たちの変化である。日本の左翼は伝統的に「国家」を否定してきた。国家が強い権限で国民を管理することに反発してきたし、憲法改正や特定秘密保護法、集団的自衛権などの「国のありよう」を強める政策にはことごとく反対してきた。

その左翼が、新型コロナウィルスに直面し「強力な国家による管理」を望みだしたのである。自粛ではなく強制せよ、国がすべてに責任を持て、の大合唱である。

「小さな政府」とか「地方自治」を標榜していなかったか、立憲主義に基いて市民が国家を監視するのだと言っていなかったか。

現実に目覚めちゃって、自らの存在意義を否定し首をしめてしまっている。コロナ騒動が治まった時、左翼はどういう主張をするんだろう。

これは政治史において旧社会党が自衛隊を合憲と認めたことに等しい「歴史的大転換」となるだろう。「なんとなくアナーキズム」から脱却してくれれば、喜ばしいことかもしれない。

音楽や演劇への影響

多くのライブコンサートや、演劇公演が中止に追い込まれている。「自粛するなら補償せよ」の大合唱である。しかしその主張に関しては社会はやや冷淡である。

原因のひとつは東京芸術劇場の芸術監督である野田秀樹氏が自身のウエブサイトに掲載した声明文である。これが「演劇人は身勝手でわがまま」「スポーツを下に見てばかにしている」と大バッシングを浴びた。文中にある「演劇の死」という言葉も刺激的に過ぎた。

野田秀樹氏はその後、何の声明も反応もしていない。多くの演劇人が「劇場を閉鎖してはならない」という氏の主張の影響を受けたのだが、もし公演を強行して大量の罹患者を出していたらそれこそ「演劇業界の死」になった。運が良かっただけである。

しかも東京芸術劇場は東京都が運営しており、野田氏が声明を出した時点で、多くの主催公演の中止を決めていた。「一演劇人」として声明を出したのだろうが、芸術監督の職を辞してからにすべきであった。

音楽コンサートも多くが中止となっているが、苦境の中にあってミュージシャンたちは、テレワークで音楽制作し動画配信するなど、逞しい。

そんな中「自粛するなら補償も」という気持ちは分かるのだが、その業界で成功している人たちが何らかの形で寄付したり、あるいは業界内の自助共助の動きが見えないのは違和感を覚える。業界の成功者が率先して「金よこせ」では共感が得られない。

それに演劇や音楽などは国家権力と一定の距離を置くべきではないのか。仮に十分な補償をもらったら、その後に残るのは国家に対するふしだらな恭順だ。

コロナから見えたもの

今回の新型コロナウイルス騒動を通して世界は否応なしに変化する。行き過ぎたグローバリズムは終焉し、各国家は「自立」を求められる。政治、文化の世界でもそれぞれの存在を拠り所にして保守化してゆく。

必要なものだけが存在を許され、「なんとなくあってもいいよね」という物は不要になるかもしれない。

「無駄も良し」とする政治経済体制は終わるのだ。

 

 

 

 

 

 

痛風になりたくないので薬を飲んだら痛風になった

令和元年12月、痛風になった。幸い痛みはそれほどではなかった。なんとか歩けるので仕事もこなせた。痛みは3週間ほどでなくなり、左足指の違和感はひと月ほどでなくなった。尿酸値も順調に下がっているので一安心。

納得できないのは、予防のため薬を飲んだら発作が出たことである。

 

20代から尿酸値が高く、健康診断のたびに「痛風になるから医者に行け」と言われた。

自分なりに体質改善をしたこともある。

プリン体が多いとされるピールをやめ焼酎しか飲まないようにしたり、カロリーの低い食事を心がけたり。完全に断酒したこともある。

半年断酒して臨んだ健康診断で尿酸値が上がっていた時はもう笑うしかない。

結論として、飲食物や生活習慣関係なくね?という思いに至るわけです。最近の研究では、尿酸は新陳代謝に伴う「排気ガス」のようなもので、自らの体で作り出される量は、飲食物から摂取するプリン体由来よりはるかに多いとのこと。つまり何してもだめ。

 

あきらめて病院にいって血液検査。尿酸値8.5を叩き出す。いつ発作が起きてもおかしくないと医者に言われ投薬治療を開始した。

薬を飲んで1日目、おや左足の親指に違和感が。そしてすぐに痛み始めた。

一般的に言われているほどの痛みではないにせよ、なかなか辛かった。

病院で聞いたところ、薬を飲んで急激に尿酸値が変動すると発作が起きることがあるらしい。

大した痛みじゃなくてよかったねガハハ、とのこと。

先に言ってよ!

反権力を気取りながら税金にたかる人々

 

以前、是枝裕和監督が「万引き家族」でパルムドールを受賞したあと、文化庁の助成金を貰っていたことを認めながら「公権力とは距離を保つ」と発言し賛否を巻き起こした。

しかし是枝作品は表現の自由を追求しタブーに挑むようなものではないし、福山雅治を主演にする平凡な商業作品も撮っている。テレビのディレクター出身らしく業界に受ける作品を作る監督と言うイメージがある。

そのような作風の人が反権力を気取るのは非常に違和感を覚える。しかも成功した映画監督であり、発言は多方面に影響を与える。是枝監督こそ権力の側にいる。

 

文化庁の補助金は映画だけでなく、さまざまな文化芸能のに支出されている。

能や文楽などの古典芸能などは補助金を出してでも守るべき文化的側面はあるだろう。

面白いのは共産党系の劇団なんかにも出ているのである。集団的自衛権の議論の時は「サイレントスタンディング」と称し、「戦争反対」「反アベ」のチラシを持って集団で駅に立っていたりした人たちである。

演劇関係者には文化庁の予算で海外に留学する制度もある。半年くらい海外に行って芝居を見たり劇場で研修をして、日本に帰ってきたら簡単なレボート提出したら終わりである。

そういった補助金や留学の制度を活用しておきながら、それは一言も言わず、表現の自由だの権力と戦うだの、恥ずかしくないのだろうか。

表現を追及したりなにかと戦おうとするなら、税金を当てにしちゃいかんと思う。説得力がまったくないし。最終的には国家権力に飼いならされてしまうじゃないか。自分たちで金を集めて好きにやればいいのだ。

そして表現の自由を叫ぶなら、その表現を批判する自由も認めてほしいもんだ。日本にはきちんとした評価や批評をするメディアはない。批判に晒される経験がないのだ。そうなると生温い制作環境となり、つまらんものであふれてしまう。ネットの意見を拒絶しないで多少は耳を傾けた方がいい。

 

そして「表現者」自身が自分たちに酔っている感じが不快である。主役はその表現とやらを見にくる「お客さん」であって、「表現者」はそれに奉仕する存在ではないのか。お客さんをないがしろにして許されるのはごく少数の天才であって、そんな人はほとんど見当たらない。

いだてん~スポーツと政治~

NHK大河ドラマ「いだてん」を見続けている。

しかし視聴率が振るわないようだ。原因は俳優陣の舞台劇のようなコミカルでドタバタした演技である。加えて語り部である「落語パート」が素人芸の域を出ず、落ち着いて見られる部分が少ない。これではお年寄りは離れてしまうだろう。

しかし大河では珍しい近代物で、幻に終わった1940年の東京オリンピックを取り上げている画期的なドラマである。割り切って楽しんでいる。

 

さて、ドラマではベルリンオリンピックが終わり、東京オリンピック開催まであと4年というところ。ナチスのプロパガンダを前面に押し出したベルリンオリンピックに対し、東京オリンピックをいかに「スポーツの祭典」とするか、登場人物たちは思い悩む。このあと盧溝橋事件を経て支那事変に突入し、東京オリンピックの開催は返上することになるのだが。

 

クーベルタン伯爵の有名な言葉に「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」というものがある。オリンピックの精神を表す言葉として有名である。

 

1908年のロンドンオリンピックで、ホスト国のイギリスと急速に力をつけてきたアメリカは犬猿の仲で、アメリカはイギリスから嫌がらせを受けたり、競技中にけんかになったりした。険悪なムードで、アメリカ代表からはオリンピックを途中でボイコットし帰国しようという意見も出たという。

 

そんな中、アメリカ代表は気分転換にセント・ポール大聖堂に出かけ、大主教から説教を受け、大いに勇気付けられたという。そのときの言葉が「参加することに意義がある」というもので、これをクーベルタン伯爵が知り、引用したという。

 

この大主教の言葉は、

「まあまあ、我慢ならんのは分かっけど、イギリスとケンカしてもアメリカのためにはならんから、我慢して耐えてつかあさい」

という趣旨ではないの?正々堂々と戦うというスポーツ精神を訴えるのではなく、国同士の関係性に重きを置いた「政治的発言」ではないの?

 

はじめからこんなもんである。

スポーツの国際大会なんて政治と切り離すことなんて出来るわけがない。

「政治とスポーツは別」。この言葉は政治から出るものである。

あらゆるオリンピックは、ヒトラーのベルリンオリンピックと大差はないのではないかと思える。方向性が違うだけである。

 

「いだてん」の登場人物、田畑政治はロサンゼルスオリンピックで金メダル至上主義を掲げる。真意を問われ「日本を明るいニュースで満たしたい」と言う。

これだってプロパガンダである。

千葉の大停電 あきらかに人災

台風15号は千葉県で大量の倒木を発生させ、大停電を引き起こした。

いまだに復旧していない地域はまったくお気の毒である。電気がないという状況が長引くとこんなに悲惨な状況になるのかとあらためて思う。軽い気持ちで「たかが電気」などとはいえない。生活に直結したインフラがなくなることの不便さは当然であるが、以前と違うのは急速に発達した情報インフラの存在だ。情報過多といいるほどのネット情報が当たり前になった今、それが長期に途絶するというのは恐ろしいことである。

大量の杉の木が倒れ、送電設備を破壊し、復旧を阻んでいるという。

倒れた杉の木の多くが、幹の中が腐ってしまう「溝腐病」という病気にかかっていたそうだ。

千葉県では江戸時代から「山武杉」の栽培が盛だったそうである。建築資材として優秀で花粉も少ないそうである。戦後に杉の栽培が奨励され、千葉県の森林面積の17.8%を山武杉が占めるという。

今では輸入木材に押され、伐採もされず、手入れも行き届かない杉の木が「溝腐病」にかかり、台風でばたばたと倒れたのである。

田舎は「自然が豊かでいいねえ」などというのは、幻想である。おおむね人が住んでいるところは、人の手が入った「不自然」な場所である。

山を削って木を植え、池を埋め、川を捻じ曲げ、そんな土地に人が家を建て住んでいるのである。都会より田舎の方が災害に対するリスクが大きい。災害とは人災である。

森林の保全の問題は全国的な問題である。早く手を打たないと、インフラ老朽化問題と相まってあちこちで「人災」を引き起こすことになる。

そして日本の人口はこれから減少していく。田舎に住むことのリスクや経済効率も考えていかなければならない。

正体見たり?高野連

日韓関係が悪化している。テレビをつけるとワイドショーが騒がしい。曰く、日韓が互いに罵りあい、経済や文化交流、そしてスポーツまで影響がでていると。

なるほど反日を国家運営の原動力にしている韓国では、ろうそく持って、デモをしたり、日本製品の不買運動をしたり忙しいようだ。

一方日本ではマスコミが騒いでいるだけである。デモもしないし、そもそも関係悪化ではなく、正常化へのプロセスであるとさえ思って極めて冷静に受け止めている。韓国人がいくら騒いでも、「ダーウィンが来た!」でヘンな生き物をみているのと一緒である。

韓国との輸出入を業務とする企業も落ち着いたもので、これは以前からある程度の準備が進んでいたことの証拠だろう。なんの準備かといえば「断韓」である。

 

そんな中、日本高等学校野球連盟が、U18ワールドカップに出場する高校日本代表が韓国入りする際に日の丸の入っていないシャツを着せ、批判を受けた。

発表によると「現地で安全面の確認が必要」と判断し、日の丸と「JAPAN」のロゴの入ったポロシャツを着る予定を変えたという。そもそも危険かもしれないところに高校生を派遣するとは何事かと言われたら、「韓国民の感情に配慮し」と説明は変わった。

「公益財団法人日本高等学校野球連盟」とはなにか。

この組織は、経済学者で学校法人同志社総長・理事長である八田英二を会長とし、副会長の高橋順二氏は元朝日新聞名古屋本社代表であり、5人いる最高顧問のうち、渡辺雅隆氏は朝日新聞代表取締役社長。丸山昌宏氏は毎日新聞グループHD社長という顔ぶれの組織である。

会長はお飾り、高野連の実体は朝日新聞と毎日新聞が牛耳る興行団体である。

なにせアマチュアのスポーツ大会でビールを売っている商魂のたくましさである。商売しにくいので、インターハイを主催している全国高等学校体育連盟にも所属していない。

その他顧問などは教育や医療関係者、野球関係者などが多い。インテリが多いのに軍隊のような精神論を振りかざすという理解しがたい不思議な組織でもある。

 

さて朝日と毎日といえば、報道姿勢が「反日親韓」で知られる。そうなると今回の高校野球国旗問題の意図も見えてくる。純粋無垢な高校生の国際交流が「国家間のいがみ合いで歪められた!」という趣旨のキャンペーンを張ろうとして、必要のない配慮を行ったのだろう。マッチポンプというやつである。

ところが空振りに終わってしまった。一部メディアも徐々に変化し「断韓」が進んできているのだ。ここは是非とも朝日と毎日はこれからも変わらないスタンスを貫いてほしいと切に願う。どんな方向であれ全てが一色に染まることはよいことではない。健全な世の中を計る物差しとして、毒も必要なのだ。