射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

演劇は死ぬのか?

新型コロナウイルス拡大防止のため、演劇など劇場公演の自粛が求められ、それに呼応して野田秀樹氏が「演劇の死」という言葉を使い、公演の継続を訴えた。

反響は大きく、勇気付けられた演劇関係者は公演の続行を決断し、それに反発する意見もネットにあふれた。「そんなことで死ぬなら淘汰されろ」とか「演劇人は身勝手だ」などなど。

大手資本がバックにある商業演劇は早々と公演中止を決めたところが多いが、中小のいわゆる「劇団」はおいそれと中止はできない。「自己責任論」が台頭し分かり易いバッシングの対象となった。

その後緊急事態宣言が出て、しだいに公演継続を求める声は消えてゆく。そして「政府の要望で自粛したのだから補償を」という世の風潮に合流してゆく。

 

残念なのは「演劇人」と呼ばれる人から、傾聴するに値する意見が出なかったことである。演劇は人類の歴史と共に発展してきた。

しかし、現代社会の中でどれだけ重要な役割があるものか全く聞かれない。せいぜい「学生運動の下位互換」としての演劇をとらえ、近現代的な政治運動と勘違いした意見ぐらいである。

そして若いと思われる人たちの意見は、「ギョーカイ」の内側しか見ていない。

古典や歴史を知らずに現代劇をやっている若い演劇人が「公的な補償」を求めても説得力はない。

 

有事の際に、民衆や芸術家などの表現者はどうなるのか、さんざん演劇を通して訴えてきたはずである。平和に安住せず危機感を持てと言ってきたはずである。

今回の戦争状態に準ずる新型コロナ問題だって「分かっていた」はずだ。あるいは戦争をテーマに作品を作ってきたのは、単なる平和な時代の遊びだったのか。

一部の演劇は左翼運動としての歴史を持つ。その中でテンプレとして戦争物をやってきただけである。「平和は大事」なんてみんな分かっているのだから。

 

日本は劇団が多い。こんなにあるのは世界でも日本だけである。

政情不安定な発展途上国で劇団やる人はいない。ほとんどいない。日々の生活や食べ物の心配で頭はいっぱいである。演劇ができる国は平和で経済も安定しているのである。

劇団員の多くはほぼ無給で、手売りしたチケット代が自分の収入となる。みんなアルバイトをして演劇につぎ込んでいるのだ。それでもみんなスマートフォンを持ちワンルームマンションに住んでいる。演劇業界は経済大国日本に守られている。そして演劇を作って何を発信するのか、今まで問われてこなかったのである。

公的な補償を求めるのなら、演劇も公的なものになるべきだ。権力に従えということではない。大人におなりなさいということである。

どこまでも自由にやりたいのなら、公的な補償なんか受けてはならない。現代劇は長いこと「学生運動の下位互換」としての政治運動を「なんとなく」惰性でやってきたように見える。そして若い人たちはヒエラルキーのなかでそれを「なんとなく」受け入れてきた。そのうす甘い「なんとなく」感から脱却する絶好の機会となる。

野田秀樹、ケラリーノサンドロビッチ、平田オリザらの「成功者」は演劇業界の団結を呼びかけたりしない。こういう老害を追い出す絶好のチャンスとなる。

新型コロナ後、演劇を武器にして何を発信するのか。若い才能がインターネットを利用すれば、世界を相手にできる。新しいビジネスモデルを構築できる。「劇場の閉鎖」ごときで「演劇の死」などとみっともなく怯えなくてもすむのだ。

演劇は人類とともにあり、死ぬことはない。