射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

新型コロナがもたらす大転換

新型コロナがもたらすものは

それにしても新型コロナウイルスの影響はすさまじい。

僕の仕事も大変な影響を受けた。受注していた事業はすべてキャンセルとなり、4月からほぼ在宅ワークとなった。幸いサラリーマンで委託先から複数年で契約しているため多少の手当ての減少はあるが給料はさほど変わらない。フリーランスや個人事業主でなくて良かったと心から思う。

強制力はないにせよ「緊急事態宣言」が出て外出や店舗の営業の自粛が求められている。SF映画のようだ。そして今回の新型コロナの流行が世の中にいくつもの変化をもたらし、もうコロナ前には戻れないのかもしれない。

いわゆる左翼の大変化

連日ワイドショーや報道番組はコロナ一色である。そのほとんどはほとんど安倍首相に対する批判である。

学校を一斉休校したら、「親のことを考えていない」「意味がない」「学ぶ権利を奪っている」など。なかには「子供がいないから教育を分かっていない」なんていうコメンテーターもいた。ここまでくると憎悪表現だ。

その後、各国が休校しだすと批判はやみ、休校を解除しようとする動きが出ると、「なんで再開するんだ」と非難する始末。

まあマスコミがバカなのは今に始まったことではないし、矛盾なんか気にすまい。政府の対応に問題があることは確かだが、すこし落ち着いてから断罪すればよい。いずれにせよ政策の是非はあと半年くらい経過しないと分からないのではないか。

驚くのはいわゆる左翼と呼ばれる人たちの変化である。日本の左翼は伝統的に「国家」を否定してきた。国家が強い権限で国民を管理することに反発してきたし、憲法改正や特定秘密保護法、集団的自衛権などの「国のありよう」を強める政策にはことごとく反対してきた。

その左翼が、新型コロナウィルスに直面し「強力な国家による管理」を望みだしたのである。自粛ではなく強制せよ、国がすべてに責任を持て、の大合唱である。

「小さな政府」とか「地方自治」を標榜していなかったか、立憲主義に基いて市民が国家を監視するのだと言っていなかったか。

現実に目覚めちゃって、自らの存在意義を否定し首をしめてしまっている。コロナ騒動が治まった時、左翼はどういう主張をするんだろう。

これは政治史において旧社会党が自衛隊を合憲と認めたことに等しい「歴史的大転換」となるだろう。「なんとなくアナーキズム」から脱却してくれれば、喜ばしいことかもしれない。

音楽や演劇への影響

多くのライブコンサートや、演劇公演が中止に追い込まれている。「自粛するなら補償せよ」の大合唱である。しかしその主張に関しては社会はやや冷淡である。

原因のひとつは東京芸術劇場の芸術監督である野田秀樹氏が自身のウエブサイトに掲載した声明文である。これが「演劇人は身勝手でわがまま」「スポーツを下に見てばかにしている」と大バッシングを浴びた。文中にある「演劇の死」という言葉も刺激的に過ぎた。

野田秀樹氏はその後、何の声明も反応もしていない。多くの演劇人が「劇場を閉鎖してはならない」という氏の主張の影響を受けたのだが、もし公演を強行して大量の罹患者を出していたらそれこそ「演劇業界の死」になった。運が良かっただけである。

しかも東京芸術劇場は東京都が運営しており、野田氏が声明を出した時点で、多くの主催公演の中止を決めていた。「一演劇人」として声明を出したのだろうが、芸術監督の職を辞してからにすべきであった。

音楽コンサートも多くが中止となっているが、苦境の中にあってミュージシャンたちは、テレワークで音楽制作し動画配信するなど、逞しい。

そんな中「自粛するなら補償も」という気持ちは分かるのだが、その業界で成功している人たちが何らかの形で寄付したり、あるいは業界内の自助共助の動きが見えないのは違和感を覚える。業界の成功者が率先して「金よこせ」では共感が得られない。

それに演劇や音楽などは国家権力と一定の距離を置くべきではないのか。仮に十分な補償をもらったら、その後に残るのは国家に対するふしだらな恭順だ。

コロナから見えたもの

今回の新型コロナウイルス騒動を通して世界は否応なしに変化する。行き過ぎたグローバリズムは終焉し、各国家は「自立」を求められる。政治、文化の世界でもそれぞれの存在を拠り所にして保守化してゆく。

必要なものだけが存在を許され、「なんとなくあってもいいよね」という物は不要になるかもしれない。

「無駄も良し」とする政治経済体制は終わるのだ。