射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

「ダメ人間マエダ」の終活(後編)の感想 ダメ人間VS良識

さてザ・ノンフィクション「人生の終わりの過ごし方『ダメ人間マエダ』の終活」の後編の感想である。

前編についてはこちら。

www.koketumarobitu.com

2020年の大晦日、なんとか年は越せたが余命宣告を受けているマエダ、癌は内臓まで転移していた。2021年が始まると在宅介護用のベットが自宅に運ばれ、終末期医療用のホスピス探しを始める。

足の痛みに耐え切れず座り込むマエダを、ただカメラは追いつづける。何も出来ないテレビスタッフに対し、「何もしなくていい」と言い放つ。「なにもできないから」と。

母親に介護され最後の時を過ごすが確実に死は近づいてくる。
最後の数週間はテレビ取材は出来なかったのだろう。

明け方にマエダはツイッターに書き込む。
「にか何か下さい何か下さいこわいこわいこわい」
明らかに恐怖に怯えている。

それに反応した先輩ライターがラインで反応してくれる。そのときのマエダの言葉。
「入眠(?)する時にぞくぞくきて魂を持っていかれるような感覚になって、それが死ぬんじゃないかって思っちゃうところです」

ぞっとする言葉である。見ているこちらもぞくそくする。

そして2021年5月8日、ダメ人間マエダは死んだ。
最後にツイッターで発した言葉は「ありがとう」であった。

マエダが死んだあと、残された母親のもとにかつての仕事仲間が集まり、酒を飲みながらマエダの思い出話に花を咲かせていた。母親からすればみんな息子のようなものだろう。そのときにお母さんががしっかりしていたのが救いだ。もちろん実際の心の中は当人にしか分からないが。

前編の放送後に様々な反響があったという。

「なんだかんだいって、良い友達と情熱を注げる仕事に恵まれ幸せな人生じゃないか、ゆえにマエダはダメ人間ではない」という趣旨の意見が多かった。これはダメ人間マエダのアイデンティティ全否定ではないか。ダメ人間に対して失礼極まりない。

一方でコロナ禍でみんな自粛しているなか、旅行に行ったり、好きなものを食いに行ったり、集まって酒を飲む振る舞いを、自粛警察よろしく批判する「良識的な」意見。これですよこれ。

ダメ人間を輝かせるのは世の中の薄っぺらい良識である。尚且つ、まさに命懸けのダメ人間ぶりは良識を吹き飛ばす。

どうせあの世でもパチスロ(あの世にあれば)やって酒(あの世にあれば)飲んで、楽しくやってるんだろう、このダメ人間めと言ってやるのが1番ではないか。

 

 

 

 

ウィズコロナ?ゼロコロナ?

マスク着用もすっかり当たり前になり、マスクをしていなかった時代がもはや懐かしい。

もしエライ人が「もうマスクしなくてもいい」と宣言しても、皆マスクを外すことはないだろう。良くも悪くも、空気を読み、横並びを好む農耕民族日本人の習性として。

9月に入って新規感染者数は減少している。

緊急事態宣言の解除後は制限の緩和に向けた議論が始まるだろう。それも新しい総理大臣の元で。グッバイ、ガースー。

ロックダウンについての検討は自民党総裁選でもテーマのひとつになっている。しかしことコロナ対策としてのロックダウンについては、各国ともうまく行っていないようだ。

ニュージーランドは「ゼロコロナ」を目指し、少人数でも感染者が出るたびロックダウンを行なっている。

日本ではコロナに毅然と立ち向かっているとアンダーン首相は高く評価されているが、隣国オーストラリアの首相からはその政策を「馬鹿げている」と批判されている。新種のデルタ株を抑え込めた国はないからだ。

ニュージーランドは感染者が少なかったためワクチンの接種が進んでいないという問題もある。もちろんワクチンが万能ではないが、出遅れは深刻だ。

いつまでも「鎖国」ができるわけもなく、近いうちに政策の転換を迫られるだろう。

日本もコロナに対して意識をあらためる時期だ。もちろん「単なる風邪」とはいえないし、スウェーデンのような極端な政策を取るわけにもいかない。

マスクと感染対策をできる範囲で行い、ある程度の新型コロナ感染を受け入れるのだ。

怯える事なく、慎重に、ウィズコロナに舵を切りましょう。

そして医療の問題だ。日本の病床数160万のうちコロナの専用病床に割り当てられているのはたったの4万である。

野戦病院なんて作る必要はないのだ。日本医師会と私立病院・開業医の協力があれば問題は解決する。

東京医師会の所属医師の病院で、補助金を受け取っておきながらコロナ病床に空きがあったという事件があった。医師会は補助金の返還も考えているとコメントしていたが、悪質な詐欺行為である。

医療の最前線で苦労されている方々には感謝するが、その一方で既得権益にしがみついて甘い汁を吸っている医療関係者もいるのだ。

この件でマスコミはほぼダンマリである。

新政権の指導力が試されるところだ。マスコミが報じなくても国民はちゃんと見ている。

「ダメ人間マエダ」の終活(前編)の感想 人間は簡単に死ねないので楽しげな死後の世界が必要では

「終活」という言葉が想起させるのは、十分に人生を全うし、思い残すこともなく、家族にも恵まれて、泰然と死への準備を始める「リア充老人」の姿ではないかと思う。
一方で、確実に死が迫ってきているのに、死への恐怖に怯え心の整理も出来ず、思い残すことや後悔の念に苛まれ、強制的に「終活」を迫られる人もいるだろう。どちらかといえば後者のほうが多いのではないか。

ザ・ノンフィクション「人生の終わりの過ごし方『ダメ人間マエダ』の終活」を視聴。最近テレビのノンフィクション番組は、出演者の「仕込み感」が鼻につく。コロナの影響で取材がしにくいこともあるだろうが、総じて面白くない。

そんな中、「ダメ人間マエダ」はおそろしい番組であった。

番組では、自称「ダメ人間」のパチスロライターマエダが、癌を患い余命宣告をされる。その残された日々を、仲間との交流などを織り交ぜながら丹念に追う。
ノンフィクションとはいえカメラを前にして演技もあるだろうし、演出的な処理だってあるだろう。しかし1人の人間が確実に死んでゆくのである。そこでのリアルは瑣末なことを吹き飛ばす、おそろしい力がある。

マエダはパチスロ好きには有名な人らしい。
その方面では成功者であり、ダメ人間ではないじゃないかと思うのもつかの間、都内の裕福な家庭に生まれ、高校は進学校に行くが大学は行かず、定職にも付かず、2回の離婚歴があり、子供は3人いるが「父親は死んだ」ことになっており、実家で母親と2人暮らし。こりゃダメ人間だと思い直す。

30台半ばでパチスロに出会いライターとして人気者に。仲間にも恵まれ、やっと天職に就いたと思われたとたん、癌で余命宣告である。
残された時間を楽しもうと、酒を呑み、煙草を吸い、行きたいところに行き、やりたいことをするし、おまけにコロナに感染する、そんな刹那的な「終活」に付き合う仲間はどこまでもどこまでもやさしい。

放送後に「コロナ禍で自粛しないとは」という批判があったようだが、それが何だと思う。「どう死ぬか」は可能な限り尊重されるべきだと思うからだ。

番組の後半では、マエダは病状も進み日常生活も困難になってゆく。痛みにうめきながら路上で座り込む姿は痛々しい。

それでも仲間と一緒にいたい、注目されたい、仕事がしたいという思いと、やりたいことが出来ずに死んでゆく悔しさが画面から滲み出てくる。

自分がもし同じ境遇になったらどうなるだろうか。
死への恐怖はとてつもないのではないだろうか。自分が死んでいなくなるのである。

ここにあるパソコンも家も娘も思い出も自分の脳が存在を認めているから存在しているのである。自分の意識が消滅したら、そういったものすべてがなくなるのである。まさに無になるのである。世界の終わりといってもいい。自分の死後のイメージは真っ暗で巨大な穴にどこまでもどこまでも落ちてゆくが、それすら知覚できない感じ。怖い。

数多の宗教が死後の世界を提示してるのは救いなのだと思う。
死後の世界を虚無的なものではなく、楽しいパラダイスみたいに考えようかと思う。

死後の世界は酒も煙草もやりたい放題の酒池肉林のパラダイスという設定にしてみよう。死への恐怖が軽減するかもしれない。実際に死んだら話と違うじゃないかということになるかもしれんが。

さて番組は前後編に分かれていた。ダメ人間マエダが今後どうなるのかは後編で放送される。間違いなく死ぬだろう。後半も見たいと思う。

ペットを飼う(妄想で)

猫が飼いたい。

犬か猫かと言われれば断然猫である。犬は本能だけで動いているようでバカっぽい。猫のほうが賢そうだ。ほっといてもいいし散歩しなくていいので、手間もかからないだろう。

何しろ猫はかわいいし、モフモフ動画はずっと見ていられる。

しかし実際猫を飼うのは金もかかるし、しつけも面倒だ。

そこで妄想内で飼うことにした。
アメリカンショートヘアーの雌猫、名前はジョン。大きさは犬くらいとしておく。名前も設定も自由に変更可能だ。

猫との生活は良いものだ。愛猫は「あいびょう」と読むと知り、ひとつ利口にもなった。

夜、寝ているとゴロゴロと喉を鳴らしながら、布団に入ってくる。なんとも愛らしく、至福の時間である。

ジョンはなかなかのグルメなので、キャットフードを高級品にかえろなどと言ってくる。よろしいとお望みどおりに最高級のキャットフードにかえてやった。妄想内なのでタダである。

妄想猫のコスパは高く、クオリティオブライフも上がりまくりである。多頭飼育だってへっちゃらである。

ところが飼い始めて4日目。ボブはみるみる育ちライオンほどの大きさになってしまった。目つきも鋭くなり、鋭い角が生えてきた。その角で一突きされたらたまらない。

仕方がないのでダンボールに入れて捨ててきた。妄想内とはいえ罪の意識に苛まれまくりである。いい人に拾われろよ。

いかんせん妄想ペットでは飼い主としての責任を自覚し難い。

やはりペットを飼うならリアルがいいと思います。

豚なんかも良いかもしれない。最近流行っていると聞くし。 

散歩の途中で「ここ掘れブーブー」とトリュフとか見つけてくれたら嬉しいかもである。

そうだトリュフ豚がいい。

専門家のいない国

9月になったら肌寒い日々が続くようになった。オリンピック・パラリンピックと共に夏が終わった感じがする。
自民党総裁選を控え候補者の言動や動きを報じるマスコミも喧しい。
そして、新型コロナの新規感染者数も減ってきた。

もちろん本格的な冬が到来したらまた感染爆発を起こす可能性もあり、当然油断はできないが、ワクチン接種も進み光が見えてきた気もするのである。
そういえば、オリンピックを開催したら感染爆発が起きると多くの専門家やワイドショーのコメンテーターが警鐘を鳴らしていた。結果はどうだ。オリンピック由来の感染者はある程度出ただけである。問題なかっただろう。

今までもたくさんの「専門家」が危機を煽り、悲観的な予測を開陳しマスコミが大げさに騒いできた。

「コロナの女王」と呼ばれ「カワイイはつくれる」を実践してきた大学教授は「紫外線でコロナウイルスは死ぬので甲子園はできます」と言ってのけ、やたらとPCR検査を勧める医者は医療品の販売会社の社外取締役だったし、8割おじさんと言われた専門家はもはや8割信用されていない。

そんな「専門家」を担ぎ上げ、さらに無責任なコメンテーターに意見を言わせるテレビ局は罪深いと言わざるを得ない。

世の中はさまざまな「専門家」で溢れているが、ホンモノの専門家はどれほどいるだろうか。みんな何かの委託を受けてポジショントークをしているに過ぎないからだ。

とくに新形コロナについて語ることは、菅政権批判やオリパラ批判と相似形をなしていたといってよい。無責任に言いっぱなしで反省もない。

結果、菅政権が終わり、総裁選に話題をさらわれているのだから笑えない。

節目節目に「本物の」専門家にキチンと分析してして欲しいものだが、ないものねだりなんだよなあと思う。

渋沢栄一とリリー・フランキー

新一万円札のデザインが発表された。
肖像は渋沢栄一である。なんというかリリー・フランキーに似ている。
いやリリー・フランキーが渋沢栄一に似ているというべきか。

新一万円札は飛び出す3Dホログラムなどが採用されている。
飛び出すリリー・フランキー………。あまりありがたみがない。

渋谷駅の西口デッキにNHK大河ドラマ「青天を衝け」の広告でジャックされている。明治時代のレトロな雰囲気で撮影され、渋沢役の吉沢亮の広告写真がこれでもかと展開されている。
その横を通り過ぎながら、吉沢亮はたしかにイケメンだが本当はリリー・フランキーなんだぞ、と思いひとり悦に入る。
若い頃は吉沢亮が演じ、晩年はリリー・フランキーにやらせればいいのに。これをやってくれたら、受信料を払うことを前向きに検討するかもしれないことを表明します。払うとは云っておりません。

渋沢栄一はたしかにエライ人なのだが、超女好きと言われ、愛人や隠し子が沢山いたのである。一説には20人子供がいたとも言われている。生涯お盛んであったのだ。

リリー・フランキーも女好きっぽいし、渋沢に似ている。もしかすると、渋沢栄一の血を引いているのではないだろうかと考えてしまう。

お札のデザインがリリー・フランキー…じゃなかった渋沢栄一になるというのはポリコレ的にはいいのだろうか。花柳界で遊び、妾がいっぱいいた人である。当時は問題ないかもしれないが、現在の価値観ではNGではないか。

その筋の方々が騒げば、デザインの見直しを行うことになるかもしれない。ほとんどが謎に包まれている人物でなければどこから批判されるか分からない。

すると…。卑弥呼ぐらいしか思い浮かばない。

詳細な資料が残っている近現代の人物はお札に採用しないほうが良いのである。
「当時の価値観を無視して批判する」ことがが主流になりつつあるからだ。

いっそアニメのキャラクターでいいのではないか。
3Dで飛び出すのなら、リリー・フランキーよりピカチュウとかドラえもんのほうが楽しいしね。

愛煙家が「喫煙の自由」を求め提訴  判決に注目

昔はどこでも煙草が吸えた。
あちこちに灰皿があったし、駅のホームから線路を見るとポイ捨てされた吸殻だらけ。普通の電車内でもボックスシートは喫煙化だったし、飛行機でも吸えた。昭和40年代生まれの子供時代は今からすればびっくりの喫煙天国だったのだ。

高校生くらいのときに駅のホームに喫煙所が設けられた。喫煙所はだんだんとホームの端に追いやられ、寒い冬などは喫煙者は不満タラタラであった。

そのうち飛行機でも吸えなくなり、公共施設でも吸えなくなりと、喫煙者の受難が加速してゆく。
おまけに煙草のパッケージに健康被害について表示がされるようになる。はじめは側面に控えめに書かれていたが、すぐに正面下部にデカデカと書かれるようになる。

僕は愛煙家でロングピースを好んで吸っていたので、レイモンド・ローウィによる秀逸なデザインが台無しだよと当時は思ったし、健康を害する危険なものを国がお墨付きをあたえ、おまけに税金上乗せして売っているのか腹が立った。

そして時は過ぎ、禁煙に成功し、煙草からは縁遠い生活になった。
喫煙者である会社の同僚は、煙草休憩も一苦労である。喫煙所は遠く、しかもコロナで喫煙者に向けられる目は厳しい。

そんな中、注目の裁判が始まった。
愛煙家が喫煙の自由を求め国に損害賠償を求める裁判を起こしたのである。
改正健康増進法が施行されてから、飲食店での喫煙しながらの食事ができなくなり、喫煙者全体が社会から排斥されるべき存在のようなメッセージが発せられ、個人としての尊厳を傷つけられたという主張。

加えて受動喫煙の回避は大前提だが、喫煙者専用の店舗を設けるなど共生する方法があるのではないか、と訴えている。

他者に迷惑をかけなければ、たしかに喫煙は犯罪でもないし、喫煙を楽しむ行為は個人の権利として守られるべきだと思う。そんなにケシカランのなら販売を中止せよ。

しかし世論は厳しいようで、喫煙者を害悪のように攻めたて、裁判を起こした愛煙家に対する風当たりは厳しい。

だがちょっとまってほしい。(朝日新聞風)

個人にとってなにが大切かというものを選び取る権利は個人に属する。それが寿命を縮める結果になってもだ。「どう生きてどう死ぬか」ということは個人の尊厳と自由にもとづかねばならない。もちろん公共の福祉に反しない程度でね。その自由を手放していいのかな。これは関係ないと思っている人にもブーメランとして帰ってくる気がするのですよ。

煙草からの税を原資に喫煙者用の店を作るなどして「禁煙権」と「喫煙権」の両立はできないんだろうかと思う。

きわめて近い将来、危惧されるのは、新型コロナワクチンを接種しない人達に対する差別である。喫煙者を断罪するこの有様をみると、そちらも分断は進み社会は多様性と寛容を失ってゆくだろう。

今回の裁判は「私権の制限」議論にも繋がるものなので注目すべきだろうと思う。

多様性を尊重すすならなおのこと、様々な局面で判断を留保できる幅が、ある程度あったほうがいい。

民主主義は「好い加減」でいいのです。

 

 

自民党総裁選 なぜ総理大臣になりたいの?

菅総理大臣が任期満了後の総裁選には出馬しないことを表明した。

すぐにテレビのワイドショーは自民党総裁選の話題で持ちきりである。
なんだかんだと盛り上がったオリンピック・パラリンピックも終わり、ひと段落。話題もなくなり再びテレビ番組は芸人出演のバラエティばかりに。

そんな中、自民党総裁選はテレビ局にとって助け舟になっている。キャラの立った総裁候補が出演してくれるし、よかったねテレビ局。
テレビ局も反自民党を気取りつつ、持ちつ持たれつの関係なんだろう。
そのさまはツンデレの愛人である。

組織のトップというものは不祥事でも起きようものなら責任を一身に受けなければならない。絶対ナンバー2か、ナンバー3の立場のほうがおいしいと思う。
しかし自民党総裁選は毎回複数の顔ぶれがそろう。なぜだろう。
絶対損な立場なのに。

総理大臣になったら、自由もないし超多忙である。そして常に批判の対象にされケチョンケチョンに叩かれる。

菅総理は、官房長官時代に愛想はないし演説は上手くないが、淡々と事を進める仕事人的なところが評価されていたはずだ。しかし総理大臣になると、感情がない、表情が暗い、覇気がないと叩かれる始末。もともとそういう人だったじゃないか。
そして渾身のパフォーマンス「ガースーです」は大ひんしゅくを買う結果に。
そりゃ辞めたくなるよ。

たいがいの総理大臣もみんな同じようなもので、退任退陣のときは悪い評判を身にまとい、悲しく官邸を去ってゆくもの。辞めた後は過去の人となり、たまに見かけるとまだ生きていたのねと思うくらいである。

例外は自民党では安倍、麻生、旧民主党では菅(かん)、鳩山くらいか。
良くも悪くもこういう人たちでないと、総理大臣なんて務まらないのだろう。

次の総裁選候補者もおかしな人達ばかりである。
だれも立候補しないと困るので、出馬してくれてありがとうである。

タクシー配車アプリ「GO」を使ってみた すんごい便利!

車の運転だけはしてはなんねえという死んだじっちゃんの遺言で、車の運転をやめて何年経つだろうか。
もう20年くらい運転していないし、当然車は所有していない。
今車の運転をしたら、コンビ二にダイナミック入店&いらっしゃいませとなるし、ガードレールをぶち破り、走馬灯を見たのちおっこちて死ぬ。人様に迷惑をかけることは決定的である。

金のかかる車を持っていないのでタクシーをガンガン利用してもお安いものだ。とはいえ、街中ではなく自宅からタクシーを利用するのはなかなか面倒くさい。

そこで最近テレビCMでおなじみのタクシー配車アプリ「GO」を利用してみた。

結論から言うと超便利である。

事前にアプリをインストールし個人データを登録しておく。

使うときは、地図上で乗車位置と目的地を指定する。事前に登録してあれば、クレジットカードでの支払いを指定できる。

いざタクシーを呼ぶと、待ち時間と予定到着時刻が表示される。

すると本当に時間どおりにタクシーが到着するのである。

乗ると運転手さんが「~に行けばいいのですね」と聞いてくる。
なぜ私の目指す約束の地を知っているのか?超能力者か?スパイか?いや事前にアプリで入力したからですね。

降りる際はカード払いをしているのでアプリ内で決済され本当に降りるだけである。
金を払わず降りているような背徳感がたまらない。

なんと便利なアプリか!ヘビーユーザーになってあげます。

おまけに降車後にアプリで申請すると領収書がメールで届くので仕事でも使える。

ただ欠点もある。行き先を告げたり支払いがないので、運転手さんと会話をする糸口がほとんどないのである。CMの流れる後部座席のモニターをただ黙って凝視するしかない。運転手さんの趣味や好物も知ることはむずかしいのだ。
運転手さんもいい人なので(たぶん)、気まずい車内を何とかしたいと思っているはずだ。

それと時間を指定しての配車依頼はまだ難しいようだ。いずれ改善されれば使い勝手はますます良くなるだろう。

配車アプリ「GO」おすすめである。

禁酒して1ヶ月 己に克つ

30代の頃は2、3日食事が不規則になるとすぐ体重が2Kgくらい落ちていた。
ところが40台も後半になると、なにをしようが体重が落ちにくくなってきた。代謝が悪くなってきたということだろう。自分で自分の体がコントロール出来なくなってゆくのは嫌である。思い切って禁酒に挑戦してみた。

コロナ禍においていもうとワックワクじゃなかったリモートワークなどがふえ、いまだかつて無いほど家にいる。コロナ禍で仕事は激減しているのではっきり言って暇である。パソコンに向ってメールをチェックしているだけの楽な仕事です。必然的に酒量は増える。だらだらと飲みくだくだと寝る毎日が続く。

もしコロナ禍が一段落して以前のような忙しい日々が再びやってきたらと考えると恐ろしい。間違いなく死ぬ。過労死する。コロナでは死なないと思う。むしろ。

年をとって衰えてゆく体と向き合い、コロナ禍で健やかなる日々を過ごし、来るべきアフターコロナで死なないようにするため、対策を講じなければならない。

というわけで一念発起して禁酒を始めたのである。

もともと酒はまとめ買いはせず、その日飲む分はその日に買っていた。まとめ買いすると際限なく飲んでしまうからである。なので夜中にコンビ二にビールを買いに行くこともしばしば。酒を買わなくなったので近所のコンビ二はつぶれてしまうかもしれない。すまん店長。

酒の代わりに炭酸水を飲むことにした。もともとビールかハイボールが好きなのだが、炭酸の刺激があれば代用できるんじゃないかと考えたのだ。しかしコーラとかは多くは飲めない。アメリカ人じゃないし。
この作戦は大成功で、風呂上りに冷たい炭酸水を飲むと結構満足してしまう。アルコールなんていらなかったんじゃ。

そして1ヶ月間、1滴も酒を飲んでいない。
すぐに脇腹の脂肪は目に見えて落ちてきた。体重は2週間ほどは何の変化もなかったのだが、3週間目から少しずつ落ち始め、現在-2Kgである。セルフコントロールができるという感覚は良いものである。

睡眠の質は上がった。当然二日酔いでだるい目覚めはないし、深く眠れる。夜中に目覚めることも無くなった。

あと頭の回転が速くなってきたかもしれない。ゆえにネットサーフィン(死語)のスピードが3倍になったかもしれない。
もう恋なんてしないなんて言わないかもしれない。

禁酒は「己に克つ」感が得られ大変良いものです。デメリットは見当たらない。
コロナ禍で生きる意味を見失っている皆さん。禁酒いいですよ。暇つぶしに。