新潟県高野連が今春から投手の投球数を1試合につき100球までにする球数制限を導入することを明らかにした。
対する日本高野連は説明を受け、新潟県高野連に再考を申し入れるとしている。理由としては、部員が少なく複数の投手を揃えられない学校が多い事、勝敗に影響する規則の変更は全国で一斉におこなうべきことなどを挙げている。今後議論を進め、1年後をめどに具体策をまとめるとしている。
このニュースをNHKで観た。NHKは球数制限に対し否定的であることが分かる。かつて松坂大輔を酷使し甲子園で優勝した元監督にインタビューし反対の論陣を張ってたからだ。
曰く「高校で野球を終える投手の最後の試合を途中で降板させていいのか?」「選手によって体格差や成長の度合いに差があり、一律には出来ない」「整体や医学の知識のある指導者を育成することが先だ」などと言う。選手の体や健康を守る気なんて全くない訳だ。そして球数制限に賛成する意見は紹介されない。
そして現在の日本高野連の会長も、昨年の大会で活躍した金足農業に対しこう発言している。
「秋田大会から1人でマウンドを守る吉田投手を、他の選手が盛り立てる姿は目標に向かって全員が一丸となる、高校野球のお手本のようなチームでした」
日本高野連やマスコミは、選手をまるで兵士のように酷使しその結果潰してしまっても構わないようだ。これでは高校野球は擬似戦争である。
大東亜戦争の際、新聞は売れに売れた。当時はテレビもないし、戦況や出征した兵士の安否を知るにはどうしても新聞が必要だったのである。そして敗色が濃くなってきても新聞の売れ行きを考え、威勢のいい記事を書き続けたのである。軍部に強制されたからではなく単に金のためである。戦争が終わったら平和主義にコロリと転向し、戦時中は自分たちも騙されていたと見苦しく言い出したのだ。
そういうメディアの体質は今も変わっておらず、それが高校野球に象徴されている。選手を酷使し炎天下で苦しむ姿を美談にし、選手の家族は出征した兵士の無事を祈るかのように報じられる。それを「教育的」だの「感動的」と宣伝するのである。
目的は金である。日本高野連の幹部や顧問らは朝日新聞を中心とするメディア関係者ばかりだ。甲子園なんて商業野球大会であり、もともと朝日新聞の販促のための行われたものである。盛り上げるためには、お気楽レジャーみたいなスポーツではいけない。命がけの擬似戦争にして感動を演出しなければ注目されないのだ。
実際に球数制限を行なったらどうなるか。部員の少ないチームはレベルの低い投手を出さざるを得ず、地方大会はレベルが低下するだろう。それでも選手が故障するよりいい。加えて試合時間の短縮も考えて7回で試合終了にしてしまったらどうか。
「戦争」から「単なる高校の部活動」に変えればいいのである。しかし高野連は「大本営」であり、かつての軍部のように徹底抗戦をしてくるだろう。そして旧態依然の野球は、このままでは人気が低迷し野球人口も減っていく。「大本営」は不都合な真実を認めないと思うけど。