射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

共産主義は究極の民主主義であるという話 

メディアの中だけかもしれないが、自民党総裁選が盛り上がっているようだ。
同時に野党の動向にも注目が集まる。野党陣営は共闘が出来るかどうかが肝となっている。
その中で異質な存在感を示すのは「共産党」である。

かつての冷戦時代にソビエトとアメリカの二大陣営に分かれていたし、民主主義と共産主義は常に対立する構図になっている。

しかし民主主義と共産主義は正反対のイデオロギーではない。

どちらも、血みどろのフランス革命で生まれた「人権」という「イデオロギー」から生まれている。

共産主義は人民の究極の平等をめざすため、私財の保有を禁じるし土地もすべてが国有となる。これをいきなりやったらエライことになるので、まず社会主義体制を敷き段階的に変革をしていこうとした。

ソビエト崩壊に象徴されるように、その共産主義を目指す実験は失敗であった。為政者や役人は腐敗し人民はやる気を失い、民主主義陣営に遅れをとることになる。

かたや民主主義は自由経済を掲げ共産主義にくらべれば繁栄しているように見える。そして人権を尊重するもの同じだが、共産主義の理想と比べると矛盾や格差は多いし堕落している部分も多いだろう。

「人権を尊重し格差をなくしすべての人を平等に扱う」という点でみれば、民主主義も共産主義も方向性にさほど違いはない。違いがあるのはその「程度」だ。

フランス革命を母、人権思想を父として生まれた、理想に燃える頭の固い兄が「共産主義」享楽的でいいかげんな弟が「民主主義」であるといえる。(兄と弟という例えはポリコレ的にはNGなんだろうか)人権や平等を重んじるのが民主主義であるなら、共産主義はその究極の形といえる。

ところが残念なことに兄である共産主義はその前段階の社会主義体制でつまづき、来なかった未来になってしまったのだ。共産主義は思想段階で終わってしまったといえる。
民主主義は多少の矛盾を許容するが、共産主義では矛盾を認めることは出来ない。仮に完成した共産主義体制があったとすれば、そこでは「幸せ」の定義も国家が決めることになる。議会政治で多数決で意見をきめることも出来なくなる。共産主義に反対する意見を徹底的に封じ込めなければならないからだ。人民から本来の自由を奪うことで体制を維持できる。そして「体制が管理する自由」が提供される。

兄はその思想に引きこもり変革を拒むようになってしまった。マルクスは正しいという前提でしか語られない言葉はもやは宗教的啓示でしかない。左翼思想とイスラム教が親和性が高いというのも頷ける。

支持者が高齢化していることもあり、日本共産党はイデオロギー依存から脱却しないと未来はない。もちろん今の日本共産党が暴力革命を行い共産主義体制樹立を目指しているとは思わない。ただかつて暴力革命を志していたほどの人達であるので、その言葉に不信感をもたれてもしかたがないと思う。