射手座のひとりごと

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

加害者の側に立つ「拡大自殺」という言葉

大学入試共通テストの試験会場である東京大学で事件が起きた。

名古屋市に住む私立高校生が、受験生の高校生ら3人を刺した。それだけでなく、最寄の地下鉄駅でぼやが起きており、それにも関与したと見られる。
エタノールを所持しており、火炎瓶を自作して使用した疑いがあるらしい。

高校生は東大を目指して勉強していたが成績が上がらず悩んでいたという。自殺を考えたが、人を殺して罪悪感を背負ったのち、切腹しようと思ったと供述しているという。

報道を通して知る限り、愚かなガキがおこした凶悪犯罪である。粛々と重罪にしてほしいと思う。理由なんて知ったことか。

本当に自殺する気だったら成就していただろう。のうのうと生きているということは自殺願望も疑わしい。

こういう事件がおきるとすぐに「社会が悪い」とマスコミが言い出すのは、事件をダシにして社会批判をすることが仕事だからであって、相変わらず深い意味はない。

気になるのはマスコミが最近使い始めた「拡大自殺」という言葉である。

大阪北新地放火殺人事件でこの言葉をはじめて見た気がする。今回の東大事件でもワイドショーなどで使われている。

この「拡大自殺」は非常に問題がある言葉だ。

「無差別に大量殺傷したのち自殺」したのであり、「拡大自殺」は加害者の「自殺」と言う行為がまず中心にあり、被害者の視点が抜け落ちている。
「無差別に大量殺傷したのち自殺」を「心中」と同義にしたいのかとも思う。

やむにやまれぬ一家心中であっても「大量殺傷したのち自殺」である。しかし似て非なるものである。

守られるべきは加害者の人権ではなく、被害者やその家族の人権である。

「拡大自殺」という言葉からは、加害者の人権ばかり守る人権思想の反道徳的な側面が見えるのである。死んだ被害者の人権は消えてなくなるのである。