射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

ドキュメンタリーは信じない

最近のテレビニュースは演出が過剰である。
驚くべきことにナレーションにBGMを被せたりする。ネガティブなニュースではおどろおどろしい音楽がかかる。人物の声を声優と思しき人に喋らせたりする。悪人は悪人らしく、善人は善人らしく。

もはや印象操作を隠そうともしない。

もはやニュースでも報道でもない。下世話なワイドショーである。NHKの7時台のニュースですら、そうなった。もはや「報道の体」すら放棄し無責任な「創作物」であふれている。

インターネットで文字だけでニュースを読んでいる方が、余計な先入観にとらわれずに済んでよい。ネットが当たり前の若い人にとってテレビ界はいよいよオワコンである。

こうなるとテレビニュースは「何を伝えるか」ではなく「なにを伝えないか」を確認するためのものであると考えないといけない。そう思えば、なるほどなるほどと面白い。

そしてほぼ同じ手法をとる「ドキュメンタリー」もひどいものである。

最近NHKで放送された「河瀬直美が見つめた東京五輪」のなかで不確かな内容があったとされ、物議を醸した。

ニュースからして世論操作が目的であると隠しもしないのに、「ドキュメンタリー」は真実だとでも思っているのだろうか。

顔にモザイクをかけ声を加工された「自称関係者」が言うことは真実であると証明できず、そのようなものは信じてはならない。

「河瀬直美が見つめた東京五輪」のなかで、インタビューに答えていた反対デモに参加していたというおっさんだって仕込みに決まっているだろう。本物だという証明はないのだから。

この一件は五輪反対派と賛成派がそれぞれ騒いだから話題になった。どちらも自分が信じるもの信じたいだけである。

ドキュメンタリーは創作者やその所属する運動体が「見る人をどこに誘いたいのか」を確認するために見るものである。そう思えば、なるほどなるほどと面白い。

斉藤和義の「ウナナナ」と言う曲の一節に「ドキュメンタリーなんて信じない カメラはそこで回ってるんだぜ」とある。まったくその通りである。