ウクライナ戦争でいやおうなく「核抑止」がクローズアップされている。
僕は核抑止という概念は冷戦時代のなごりでしかなく無意味になりつつあると思っている。前回のブログで書いたが、威力が抑えられた小型核の登場により、使用へのハードルは低くなっていると思うからだ。お互い核を持ったとしても抑止力にはなりにくい。
加えて核兵器だけが大量破壊兵器ではないので特別扱いするのもヘンである。核はだめだが、通常兵器は問題ないというのもおかしい。
ひとつの都市を壊滅させ大きな被害をもたらす戦略核兵器についてはどうか。
ひとたび使用したら、核兵器の応酬となり世界に壊滅的被害をもたらすといわれる。なので使用をためらうという理屈。しかしこれは核兵器の恐ろしさが共有されていてこそなのである。
つまり核兵器は人道に反する恐ろしい殺戮兵器だからお互いに使用してはいけないという価値観を敵国も持っていることを期待してるわけである。
これでは憲法9条があれば他国は攻めてこないという平和論とたいした違いはない。核抑止も憲法9条維持も「平和ボケ」から導き出されるものではないか。
「プーチンは狂っている。何を考えているのか分からない」と識者は言う。ウクライナが核を放棄していなければ、侵攻はなかったかもしれないとも言う。その反面核兵器の使用に関してはプーチンは常識人であると期待しているのである。
プーチンがおかしくなっているのなら、いつ核兵器でウクライナやヨーロッパを焼き尽くしてもおかしくないのではないか。
日本だってひとごとではない。ロシアも北朝鮮も中国も核保有国である。近い将来、日本が核保有に踏み切ったとして、周辺国は「常識」を持っているだろうかと疑問が湧く。核抑止なんて絵に描いた餅である。
とはいっても何もしないわけにもいかず、核保有や敵地攻撃能力についても議論し検討しなければならない。もし地球に核兵器がなくなるとしたらもっと破壊力のある兵器が開発される時だろうし、世界は単に残酷なのだ。