射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

空想平和主義から現実平和主義へ

年が明けて自衛隊哨戒機に対するレーダー照射事件に動きがあった。
韓国国防省が自衛隊哨戒機の低空飛行を威嚇的だったと謝罪を求めてきたのだ。そして、重ねてレーダーの使用を否定している。もはや話の通じる人たちではない。
証拠を提示しても、どれだけ説明しても時間の無駄だ。問題を長期化させていくうちに日本のマスコミの扱いも小さくなり、うやむやになることを韓国側も大変よく分かっている。とは言え日本政府は毅然とした対応をすべきで、いいかげん韓国との付き合い方を変えないとまずい。

 憲法前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。

この「諸国民の公正と信義に信頼して」という部分が、自国を自ら守る気がないと指摘されることがある。確かに周辺国の国民に公正と信義がまるでなかったら安全と生存は保持できない他力本願な姿勢である。
誰に頼ってきたのかといえばアメリカである。この憲法はアメリカの属国で有り続けるためのものだ。憲法改正に反対する勢力が反米なのは欺瞞である。

前文にはこんな文もある。

「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」

すばらしく理想的な平和主義であるが、まったく現実的ではない。現実はみんな自国のことしか考えていないし、この文章が本当なら世界はとっくに平和になっている。

 よく改憲問題で俎上に載るのは憲法九条である。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

解釈によれば、自衛のための戦争や戦力の保持は否定されるものではないし、交戦権は認めないが自衛権は認められるというのが現在の解釈である。しかしこのままだと、自衛隊は違憲であるという解釈も成り立つので、いずれ九条は改正したほうがよいと考えている。ただ現状を見ると急いで改正する必要はないと思う。

急ぎ見直すべきは憲法前文の空想平和主義だ。周辺国を信頼するのは良いが、有事の際は毅然と自衛することを盛り込まなければならないし、憲法にある「国民の生命財産を守る」ことができない矛盾した状態が続けていいはずがない。今のままだと中国韓国などと偶発的な軍事衝突が起きかねず、最前線の自衛隊や海上保安庁を危険にさらすことになる。憲法に自衛権を定義してイザとなったらファイティングポーズを取れるようにする必要がある。その抑止力があれば戦争を回避しやすくなる。

戦争ができる国にしないと平和を希求できないのだ。まずこれを認めなければならないし、戦争ができる国を悪とみなす思考停止状態を止めなければならない。戦後は終わり空想平和主義の役割は終わったのだ。これからは冷静に現実平和主義を求める時代になった。

空想平和主義者は「なんで戦争はなくならないの」という青臭い疑問を振りかざし大人を困らせる小学生と一緒である。「つまらない大人」と言われようが現実平和主義に転換するべき時代がきたのである。

韓国と北朝鮮は分断されていない

だいぶ前に出版された姜尚中の著書に気になる記述があった。

現在は在日韓国人として知られている姜尚中であるが、日本の大学を卒業する時に、在日本大韓民国民潭と在日本朝鮮人総聯合会、それぞれから所属しないかと勧誘があったというのだ。民潭に所属すれば「在日韓国人」として、総聯に所属すれば「在日朝鮮人」として生きてゆくことになるそうだ。ある程度の年齢に達した朝鮮人は、どちらか選ぶことができるという。姜尚中はそのときに在日韓国人として生きることを選んだ訳だ。

確かに朝鮮戦争の混乱で日本に渡ってきた多くの朝鮮人を、その後の線引きである韓国か北朝鮮かと分けるのは変な話である。姜尚中が若いころは韓国は軍事政権だったし、北朝鮮は金日成の独裁体制で両国に関する情報は乏しかったし、北朝鮮の日本人拉致が明らかになるのはだいぶ後である。日本人にとっても在日韓国人と在日朝鮮人の国籍問題は関心がなかったろう。そして彼らのアイデンティティは実利に基づき選択された、日本人には理解しがたいものである。

こんなことを思い出したのは、海自哨戒機の対する韓国駆逐艦のレーダー照射事件のためである。防衛省が公開したレーダー照射時の映像をみると、韓国側のウソが明らかになる。国旗も軍艦旗も掲示していない韓国の駆逐艦はすでに北朝鮮の漁船と接触し、何らかの活動を行っている最中であったことが分かる。本当に救助活動だったとしても、日本の哨戒機に見られては困ることだったのだ。あわててレーダーで脅しをかけて追い払おうとしたのだ。

韓国駆逐艦は能登半島沖で北朝鮮船舶と何をしていたのか?

おそらく韓国側から謝罪や説明は行われないだろう。韓国は日本のみならず、アメリカからも信頼を失うことになる。それでも明らかに出来ないことがあるんだろう。

韓国と北朝鮮は表向き分断国家であるが、実際は分断されていないのではないか。韓国の文大統領も異常な親北朝鮮であるし、アメリカの同盟国であるのは形だけで、裏では実質「南北統一」しているのではないか。

北朝鮮は核保有国でありICBMなども開発している。実際の運用能力は疑問符が付くものの、国際的には外交カードとして利用することには成功している。韓国はそういう北朝鮮と真の統一を果たし、核というカードを手に入れたいのだ。そうすれば、アメリカや日本を敵に回しても偉大な国になることができる。

最近の韓国の異常行動をみると、これが馬鹿げた妄想とは思えないのだ。

平成は「破壊」の時代であった

平成が終わる。

高校に入学したのが平成元年だったので、その始まりは強く印象に残っている。そして平成を振り返ると、つくづく「破壊」の時代だったと思う。

まずは経済の「破壊」。

高校生の時にバブルが弾け、大学では就職氷河期で、いくつかの大企業はダメになった。それからはリストラの嵐である。僕の世代は好景気なんかしらない。不景気が当たり前だったのでバブルなんか羨ましくもない。その「破壊」は今でも続き、まさか東芝が傾くなんて想像できなかったことが起きている。

そして安全の「破壊」。

社会人一年目に、阪神大震災と地下鉄サリン事件があった。まさに世紀末の始まりであった。その後もさまざまな天災、人災が列島を襲った。きわめつけは東日本大震災、そして原発事故だろう。安全なんかないと思い知らされた。

最後に価値観の「破壊」。

まず昭和の時代は憲法改正なんて考えられなかった。中国は危険なまでに膨張し、東アジア情勢はきな臭くなってきて憲法改正はタブー視されることなく議論されている。自衛隊も存在感を増し、以前は考えられなかった空母保有まで計画されている。

昭和の時代に国民を覆っていた、薄甘い理想論的左翼思想は一掃され、現実主義が台頭してきた。そして情報を独占してきた新聞やテレビなどの巨大メディアが、インターネットに取って代わられた。

日本が戦後築いてきたレジームや経済が、平成の30年間で「破壊」されたのである。

次は「再生」の時代になり、多少の混乱を経て、普通の国に生まれ変わるんだろう。その変化にすこしワクワクしながら期待している自分がいるのである。これは平成を通して不遇と言われる僕らロスジェネ世代のうっぷんを晴らすためではない。

人権の反対語は道徳だ

「人権派弁護士」「人権派ジャーナリスト」などと自称したり他称されたりする輩はどうにも胡散臭い。だいたい人権という概念がよく分からない。

人間関係は対立を生む。そこに人権を主張する者が現れると、一方の人権の正当性ばかりをを主張しだす。それは対立する相手の人権を貶める作業である。人権屋は相手方の人権を認めない差別主義者なのである。

人権という概念は最近できたものだ。群れで生きる人間が他人を尊重したり思いやったりするのは本能的な知恵である。それをあえて「人権」という言葉にし概念にすると、ある種のイデオロギーを帯びて変質する。人間であることの普遍的原理などというが、使う側の都合でどうにでも解釈できる概念である。そして生物としての人間が持つ、それこそ普遍的な本能や自由な思考を封じ込めることさえある。人権屋はおおむね独善的で傲慢な態度をとる。異議を申したてる者の人権は認めない。人権思想が行き着く先はファシズムだ。

人権思想が生む差別主義に対抗するものはなにか?それは道徳だ。それぞれの人間社会で長く培われてきた知恵である。

日本には村八分という慣習があったが、残りの二分はなにか。火事と葬式である。どんな悪人であっても火事と葬式は村のみんなで協力したのである。人権という概念が生まれる前から、このような慣習があったのは道徳的な価値観があったからである。

長い歴史や生活習慣から生まれてきた知恵が「道徳」で、新しい思想的イデオロギーなのが「人権」である。同じように人間を律するものでありながら、反対語と言っていいのではないか。

学校の道徳教育に反対する人たちは大体が人権屋だ。とはいえ国家や役所が作る道徳教育に賛否があるのは当然で、そんなものは日常生活や家庭で教え身に付けていくものだからだ。しかし反対派は教育内容ではなく道徳そのものに反対している。人権思想と道徳は相反する部分があるからだ。

最近では、そういった人権屋の行動言動は左翼的とみなされるようになり、肩身が狭くなってきたようだ。そこで人権屋は「人権」を「多様性」と言い換えることを思いついたようだ。多様性を尊重し押し付けであると道徳を否定する。

「護憲」という言葉の印象が悪くなり「立憲」と言い換えるようになったが、中身は何も変わらない。それと同じである。

平成の終わりと共にメディアは完全に死んだ

相変わらずソフトバンクグループの不祥事は続いている。ソフトバンクは、中国通信大手ファーウェイとの癒着、スマートフォン決済「paypay」の混乱がネットを中心に話題になった。追い詰められ、虎の子の携帯電話部門の株式上場に踏み切り、一時的には巨額の資金を手にしたが株価は低迷し、携帯電話部門すら将来は暗い。

加えて、ソフトバンクは中国通販大手アリババグループの大株主だが、そのアリババも業績は悪化している。「paypay」の決済モデルはアリババの作ったアリペイであり、セキュリティに問題を抱えている。

ソフトバンクの有利子負債は15兆円といわれている。そしてメインバンクはみずほ銀行である。みずほ銀行はソフトバンクに巨額の貸付金があり、運命を共にしている。後戻りはできない。

孫正義の出自は中華系と思われているが朝鮮系である。「孫」という名前は中華圏の印象を考えて付けたものだろう。経歴からしてアヤシイ経営者のアヤシイ企業が何かを作り出したことはない。ヤフーもインターネットも携帯電話も、企業買収をして手に入れ成長してきたものだ。その大虚業会社もそろそろ限界がきている。いつの時代でもこのようなインチキ企業はある。身を守るためには、自己責任で調べて関わらないようにするしかない。

大きな問題はメディアがそういった事実を伝えないことである。

株式場上直前にソフトバンクを大絶賛する内容を放送したワイドショーもあった。テレビ局関係者が株を買ったので風説を流布したのだろう。同じ番組がスポンサー企業であるファーウェイを礼賛したこともある。

公共放送として死んでいる。以前はメディアのあり方に対して怒りを覚えたが、今は腹も立たない。メディアに何も期待していないからだ。かつてフジテレビにデモを行ったネット市民も同様だろうし、もう敵として過度に叩いたりしない。ほうっておけばそのうち自壊するからだ。

昭和時代、テレビは娯楽の王様であった。そして平成の30年間をかけてゆっくりと死んでいったのだ。

芸能人の政治発言

タレントのローラが、米軍基地辺野古移設に伴う埋め立て工事中止の署名を呼びかけ、話題になっている。アメリカのホワイトハウス向けの署名サイトを利用したものだ。多数の日本のタレントも賛同すると同時に、アメリカの芸能界に自身を売り込みたいローラの思惑もあるのではと反感も買っているようだ。

このローラの行動に伴い、芸能人の政治的発言の是非が問われている。発言の内容は関係なく政治的発言をすべきか否かという論調が多い。アホかと思う。芸能人は昔から政治と密接につながっていたではないか。

明治維新の後に新政府の要人がヨーロッパに視察なんぞに出向き、豪華絢爛なオペラを見せられた。そして日本も西洋人に見せられる芸能を作らにゃならんと政府の肝いりで歌舞伎を近代化させたのだ。なぜ歌舞伎だったかというとそれらしい舞台芸能は他になかったからである。歌舞伎役者が伝統だの言い出してエラソーになったのは政治のせいである。

その後、海外の演劇なんぞも入ってきて、築地小劇場などでプロレタリア演劇が上演され人気を博すが、ロシアや共産主義の影響が色濃い。舞台俳優は共産主義者や活動家と一緒であった。いまでも演劇人は政治的なバックボーンからロシアに一目置いている。

戦後になっても映画俳優は共産党員が多いし、新劇は今でも左翼運動なので、多くの劇団や全国各地の観賞団体は共産党系である。左翼の衰退に歩調を合わせて弱体化しているのは当然の成り行きである。

芸能人はずっと政治を利用し、政治に利用され活動してきたのである。それに比べれば、ツイッターでつぶやいて世の中を煽ったりなんて小さなことだ。ほとんどの言葉はマーケティングのようなものだし、その行動の是非を問うことすら意味はない。

韓国人は謝らない

以前、韓国人女性と仕事をしたことがある。来日して3年くらいである程度日本語は話せたので日常会話は問題なかった。明確に目標があり強い意志を持ち努力を怠らない人であった。

その努力の裏には、日本でなんとしても一人前にならなければいけない、舐められてはいけない、という強迫観念のようなものが透けて見えた。したがって、仕事は頑張るが仲良くなりにくい人だった。

頑張る人なので仕事はできる。しかしたまに失敗はある。しかし彼女は絶対に謝らないのである。周りが悪かったなどとウソをついてでも自分は正しかったと言うのである。

そのころ日本人は謝りすぎるしあいまいで優柔不断だと自虐的に言われていたので、彼女の強さは仲間内では評価されていた。日本人もあのように強くないと国際社会で勝ち残れないとか、韓国人が持つ日本に対する複雑な感情からくるものだとか。そして韓国人に対する遠慮や、文化的な違いに寛容であることが好ましい態度であるとして考えることを放棄してしていた部分もあるだろう。

それから嵐のような韓流ブームがあり、その後、ネットを舞台に嫌韓ブームが起きた。そして今、日韓関係は最悪の局面に差し掛かっている。慰安婦、徴用工、竹島、さまざまな問題が膠着しているなか、自衛隊哨戒機に対するレーダー照射事件が発生した。船の捜索に火器管制レーダーの使用は考えられないし、危険な挑発行為なのだが、韓国は認めないだろう。

個々の問題について、どちらかが完全に間違っているとは言えないが、明らかに韓国側に非があることでも、韓国人は絶対に謝らない。いくら詰め寄っても、責任を転嫁し、日本のせいにしてでも自国の正しさを訴える。

これは多くの韓国人が持つ民族性なので、どうなるものでもない。日本人はそれを踏まえて、関わったり関わらないようにするべきだ。分かり合うとか理解し合うのは無理である。理性という言葉は韓国にはないようだ。

多くの韓国人は嘘つきで謝らないし、それを悪い事は思わない独自の文化を持っている。これは差別やヘイトではない。単なる事実である。そのような人たちの存在を認めることも、多様性の一つである。

IWC脱退に賛成する~反捕鯨国は牛肉売りたいだけ~

政府は商業捕鯨の再開を目指し、IWC(国際捕鯨委員会)から脱退する方針を固めたと報道されている。いいじゃないか。

本来、IWCは鯨を資源として管理し捕鯨産業の発展のために設立されたのものだ。それがすっかり反捕鯨国に牛耳られてしまった。科学的見地でなく、安直なヒューマニズムを振りかざし鯨を殺させないという原理主義団体になってしまったようにみえるが、実際は違う。牛肉の輸出を基幹産業としたい国々と、捕鯨に興味がなくそれにおもねる国々の都合である。

反捕鯨国の主張は、鯨は人間同様に知能がある生き物だから殺してはダメで、家畜である牛や豚は殺してもかまわないという身勝手でアホな理屈であるが、それ自体も詭弁であり、1番の理由は牛肉を売りたいがためである。

捕鯨で思い出すのが漫画「美味しんぼ」である。第13巻「激闘鯨合戦」において国際的な捕鯨反対運動を徹底的に批判した。その根拠を人種問題であると断じ、捕鯨を日本の伝統文化として擁護した。

「美味しんぼ」はグルメブームに乗った「カルチャー漫画」として大人気だったので、「激闘鯨合戦」において過激な政治的主張を展開したのは、強烈なインパクトがあった。日本人の捕鯨に対する認識を植えつけたのはこの漫画の影響が大きいと思う。今考えると、人種差別という側面を強調しすぎてはいるが、反捕鯨国のやり方の理不尽さは描写されていたと思う。その後「美味しんぼ」は「食」を通したイデオロギー漫画としての側面を強めていき、なぜか原作者の雁屋哲はオーストラリアに移住する。反捕鯨国より日本が嫌いになっちゃったのだろうか。

日本の捕鯨も伝統文化であると同時に利権である。反捕鯨国の主張も、宗教的でインチキなヒューマニズムではあるが、同時に牛肉利権でもある。どっちもどっちなら日本は自国の利益のために行動すべきだ。どうせマスコミは「国際的な批判を呼びそうだ」と「批判」するが無視してよい。

僕はIWC脱退に大賛成である。鯨食おうぜ。

いずも型護衛艦空母化は米軍との連携が目的だ

政府が「防衛大綱」を決定し防衛力強化の指針を示した。「多次元統合防衛力」の考えのもとに、宇宙やサイバー、電磁波といった領域の防衛力を強化するほか、いずも型護衛艦の「いずも」「かが」を改修し、新たに購入するF35Bを運用できるようにする。

全通甲板のひゅうが型護衛艦を建造した時から、すこし改修すれば固定翼機の運用ができると言われ続けてきたが、その通りになった。帝国海軍時代は空母大国であったことを考えると感慨深いものがある。

艦載機となるF35Bは優秀な戦闘機となったようだ。F35は「統合打撃戦闘機」という新しい概念で開発された第5世代戦闘機である。

ほぼ同じ機体を用い、通常の離着陸機(F35A)と短距離離陸垂直着陸機(F35B)、艦載機(F35C)の3種を開発するという驚きのプロジェクトであった。これでは小学生が考えた「ぼくがかんがえたさいきょうのせんとうき」である。絶対に失敗すると思っていた。特にアメリカでは海兵隊が使用するらしいF35Bの短距離離陸垂直離着陸能力は中途半端だし何の意味があるのかと考えていた。ところが開発は順調に進み完成した。そして結果的に海上自衛隊の空母型護衛艦と最高に相性のいい機体となった。出来すぎている気もするが。

 かくして、いずも型護衛艦の空母化は決まったが、艦載機は常時搭載するわけではないという。そりゃそうだ。常時搭載したら艦を航空基地にするようなもので大変なコストがかかるだろう。アメリカの巨大空母なんて1つの町である。日本の防衛費でそんなことはできない。とりあえずは「いざとなったら戦闘機の離陸着艦ができるよ」といったアピールができるくらいのメリットしかない。しかしこのアピールが他国に与える影響が大事なんであるが。あと中国、韓国、北朝鮮以外のアジア諸国の反応が知りたいが、あまり報道はされない。

しかし問題だらけである。艦載機F35Bの運用を担当するのは海上自衛隊航空隊か航空自衛隊か決まっているのだろうか。海上自衛隊航空隊は戦闘機の運用実績はない。航空自衛隊が海自艦におじゃまして活動するのだろうか。ソフト面で越えるべきハードルは想像以上に高い。やはり日本単独で見たとき、空母化は割に合わない気がするのである。

やはり護衛艦空母化は米軍、特に海兵隊と一体となった活動をするためと思われる。想定しているのは対中露である。

 マスコミは今回の決定に賛否両論である。賛成派は対中国を念頭にやむなしという。反対派は攻撃型空母の保有であり憲法上許されないという。まあ賛成派は親米で反対派は親中なのだが。

現在米中は経済戦争の渦中にあるが、いずれ軍事衝突も懸念される冷戦状態に入るだろう。軍事はリアリズムに基づく。空母の保有は憲法上許されないのか。専守防衛に反するのか。そのような神学論争を吹き飛ばすリアルが始まろうとしているようだ。

AIは「真空チューブを走る車」

都市ではロボットが働き、建物はどんどん高層化し、車輪のない車が建物同士を繋がれた真空チューブの中を高速で移動する。人間は煩わしい労働や雑用から解放され、快適な都市を維持するシステムを監視し、研究や芸術などの知的労働に専念できる。子供の頃、未来はこんな「スマート」な社会になると夢見ていた。
そして2018年、アトムもドラえもんもいないし車のタイヤもまだあるし電車も線路を走っている。炊飯器の水加減を気にし、決められた日にゴミを出し、洗濯物は自分で畳む。来るべき未来は来なかった。例外はスマートフォンぐらいか。
   さて人間も社会もそれほど変わることはなさそうだ。でも変わらなきゃスマートじゃないと考える人はいて、無理してヘンなものを作り広めようとする。AI(人工知能)もそうである。
    感情認識機能付きロボットというものがある。あの目が笑っていない奴だ。機械の分際で人間様の感情が分かるなんて、バカにするんじゃない。だいたい人間だって他人の気持ちなんて分からない。ていうか自分の気持ちすら分からない。ロボットに人間の気持ちなんて分かってたまるか。それに「お客様は何名ですか?」って、まずこっち見ろ。その忍者ハットリ君の弟(名前忘れた)と同じような目は節穴かあ。  
  僕はiPhoneユーザーだが音声認識機能は使っていない。iPhoneを買ってすぐ「おSiri様」は切ったままで、試しに使ったことすらない。役にたたず時間の無駄だからだ。しかし開発した人に失礼なので「様」をつけて呼んでいる。そんな僕の気遣いも機械は認識しない。単純な音声認識だってひどいシロモノなのにAIなんてまだまだ無理に決まっている。
 スマートスピーカーも抵抗がある。声かけするのが恥ずかしいし、続けて「今日のメロウな気分に合わせたアンビバレントなヨーデルをかけて」などとスピーカーごときに頭を下げて頼まねばならない。しかも論理的で正しい文章で言わないと伝わらないらしい。
 AIなんてまだまだ発展途上で使えない。かつて夢見た「真空チューブを走る車」と一緒で不合理なものだ。便利だと思って実現しようとすると、かえって不便なことになる。今までも様々な新しい技術が生まれては消えていった。AIもそのうちの一つにしか思えない。