射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

銀座高級時計強盗事件についての考察

頭は子供、体は大人の名探偵です

銀座の高級時計店で白昼堂々仮面をつけた男4人が侵入し高級時計ロレックスを大量に奪って車で逃走。その後侵入したマンション内で16歳から19歳の男性が逮捕された。

犯行の様子も通行人によって動画が撮影されており、逃走経路もばっちり各所の防犯カメラに撮影されている。警察の追跡・捜査の状況なども動画で繰り返しマスコミが伝えた。

捜査が途中であるにもかかわらず、犯行は「闇バイト」によるものと確定させた報道が一斉に行われており、実行犯は背後にいる「指示役」の指示に従っただけの「被害者」であるという方向に導かれている。いずれにせよ今後の捜査が注目される。しかし不可解な点ばかりである。

まずロレックスは製造番号が照会され盗品であることは簡単に判明してしまう。闇取引の状況は分からないが、こんな稚拙なやり方で盗んでもまったく割が合わない。

逃走経路も警視庁の前を通るなどわざわざ「稚拙さ」を演出しているように見える。犯行から逃走まで防犯カメラに写ることを意識したようである。車を斜めに止めカメラに向かって走ってくる4人の映像なんてまったく出来すぎで、事前のロケハンが周到に行われているかのようだ。その作り物めいた事件をまるで用意していたのように一斉に報道するマスコミ。おまけに犯行グループに未成年がいるから肝心な要素はぼかすことができる。

年末に暴力団に捜査が入り銃器などが押収される事件がある。これは暴力団からリークがあり警察にポイントを稼がせてやるのである。警察からすればマスコミが報道してくれて「正義の警察」をアピールすることが出来る。暴力団は警察に恩を売り見返りが期待できる。つまりはウインウインの関係である。

今回の高級時計強盗事件も同様な茶番臭がするのである。

反社会的な組織が「指示役」を演じ今回の犯罪をプロデュース。警察、マスコミの協力を得て実行した強盗事件、いやワイドショー映えする映像作品を作ったのではないかということである。

ならば警察は実行犯らを迅速に逮捕でき「有能な警察」をアピール、マスコミは格好の「ネタ」を得、反社は警察・マスコミに「恩」を売れ、実行犯は騙されただけと同情され軽い罪で済む。指示役はちんけな半グレのチンピラを用意しておけばいい。

ならばまったく三方よしである。

真実はいつも一つ!とはならないのが世の常であるので、勝手なことを書き散らしました。頭が子供なのです。

朝日新聞はどこの異世界を見ているのか

イタリアでもホモでありたい
という回文をネットで見つけてからというもの、思い出し笑いに困らない私だ。

ついでに発行部数が落ちる一方のオールドメディアの雄たる朝日新聞のサイトに潜入し社説を読んでみた。

朝日新聞は左翼リベラルにして空想的平和主義の守護者として君臨してきたが、昨今のウクライナ戦争や中国の不穏な動きなどの世界情勢から学べば、ある程度の現実主義も受け入れているのだろうと思っていたがそうでもなかった。というか変わっていない。ある意味超保守とも言える。

さてその社説は5月11日付「海保と自衛隊 厳格な役割分担維持を」である。

内容としては「海の警察」である海上保安庁は、有事の際には自衛隊法80条に基き防衛相の統制化に入ることもあるのだが、それについて政府が初めて「統制要領」を策定したことについて。

その統制要領では、有事の際海上保安庁は閣議決定で統制下に入り、防衛相の命令は海上保安庁長官を通して行われ、自衛隊は戦闘に集中し、海保は住民の避難や人命救助を担当しその権限や任務は平時と変わりない。海保は軍事組織ではなく、戦闘地域に入ることはないというタテマエである。朝日はこの政府の姿勢を「妥当なものだ」とする。まあそうでしょう。こうあるべしというタテマエですから。

興味深いのは冒頭の部分である。

ただ、海保が軍事組織と見なされ、攻撃の対象となっては元も子もない。お互いの厳格な線引きは維持されなければならない。

戦争が起きたとき軍事組織しか攻撃の対象とならないという考えらしい。つまり敵国から攻撃を受けるのは軍事組織である自衛隊だけだと考えているようだ。

だがちょっと待ってほしい

ならば現在ウクライナで軍事組織ではない一般市民まで戦闘に巻き込まれているはなぜか?イスラエルでは一般市民も核シェルターを持ってるのはなぜか?東京大空襲や原爆の目標は軍事組織に限定されていたか?戦争で非軍事の民衆や公僕が犠牲にになった例は数多あるのだが。

こちら側が軍事組織と非軍事組織の線引きをしっかりしたとして、敵国がそれを尊重してくれるはずがないだろう。まったく他力本願寺である。これは憲法9条と同じ構図であって、日本が平和を誓ったところで他国にとっては知ったことではない。

加えて戦争になったら自衛隊だけが犠牲になればいいという意地の悪さがまろびでるクオリティ。

この21世紀に朝日新聞はどこの異世界を見ているのか。あまりにも歴史的現実を直視しないその頭が心配である。勝手に平和を標榜さえすれば安寧が保証されるファンタジーお花畑に転生することをお勧めする。

旧統一教会とイスラム教

旧統一教会の信者数は公称で60万人ほどらしい。

しかし岸田政権が検討している旧統一教会への解散命令に反対するため信者が提出した嘆願書の署名は2万3千人ほど。

積極的に活動している信者はせいぜい3~4万人ぐらいと推測される。当然、1箇所に固まって住んでいるわけではなく、中には選挙権をもたない子供も含まれる。

つまりは選挙に大きな影響を及ぼすほどの勢力ではない。旧統一教会と自民党との癒着はたしかにあるわけだが、現在の日本は統一教会に牛耳られているとなると、もはや陰謀論の類である。

旧統一教会と自民党の政策や主張が一致しているというが、旧統一教会の主張する家族観は昭和の日本では一般的なものである。日本で活動するにあたり当時の日本の常識を取り入れたに過ぎない。それがそのままアップデートされずに一部の政治家とともに古びたのである。

合同結婚式や霊感商法は傍から見ればカルトである。しかし信者にとっては信じるに足る教義の実践であるかもしれないし誇らしい行いかもしれない。人権思想的にも本人がいいならそれでいいのである。

それに親がエホバの証人や創価学会やモルモン教やフライングスパゲティ教などの信者であっても、子供は生まれてくる親を選べない。まあ親ガチャである。それを不幸と取るかはその人次第である。そんなわけで宗教を極端に規制できないというのが「良識」ではないか。

それに古今東西、宗教のカルト性を指摘したらきりがない。

まずイスラム教に入信したら棄教できない。棄教は死刑である。

反イスラム的とされた「悪魔の詩」が出版されたときイランの最高指導者ホメイニ師は作家や出版関係者の死刑を宣告した。そして日本語に翻訳した筑波大学の五十嵐助教授は大学のエレベーターホールで殺害された(犯人・動機は不明で時効が成立)。

ムハンマドの諷刺画を書いたフランスのシャルリーエブド紙のオフィスはイスラム過激派に襲撃され12人が死亡した。

イスラム教は旧統一教会もびっくりのカルトではないか。イスラム教を国教とする国は勝手にすればよろしいが、他国が受け入れるには慎重に行う必要がある。ヨーロッパの二の舞はごめんである。

しかし日本のメディアは信教の自由や多様性賛美を錦の御旗にしてイスラム教には寛容である。「イスラム」というと怖いイメージがあると考えているのか「ムスリム」と言い換える。「朝鮮人」と言いにくくて「コリア」と言い換えるのと一緒である。左翼メディアはイスラム教徒を受け入れろとプロパガンダにご熱心なのだ。

ならばイスラム教と比べれば平和的な旧統一教会にも寛容であるべきなのだがそうはならない。

イスラム教は左翼と親和性が高い。民主主義国家にとってはどちらも反対制で利害が一致する。旧統一教会を糾弾する行為も左翼と親和性が高い。現与党への攻撃となるからである。

なりふり構わず行われる旧統一教会への攻撃は、憲法の理念や社会常識を無視して行われている。こんなメディアが「憲法を守れ」と合唱するのだから始末がおえない。

旧統一教会問題は表面的なワイドショーのネタとして提供され消費され、その背後にある勝共連合の存在については触れなくなったのは一種の目くらましかと思う。

蛇足だが、意外なことに日本弁護士連合会(日弁連)は旧統一教会の解散命令問題に距離を置いている。かつて日弁連は坂本弁護士一家殺害事件があったにも関わらず、基本的人権や信教の自由を侵害するとして、オウム真理教への破壊活動防止法適用に反対の声明を出している過去があるからだ。

「国境なき記者団」の胡散臭さを報道する自由度はいかほどか

国境なき記者団」というフランスで設立された非政府組織が毎年発表している「世界報道の自由度ランキング」によると、日本は前年の71位から少し順位を上げたものの、68位であったという。G7の中で最下位である。

日本の「報道の自由度ランキング」は2010年までなんと1桁台で「報道の自由のある国」と見なされていたのだ。その後震災や原発事故などがあり、記者クラブの閉鎖性、特定秘密保護法制定などの影響からランキングは下がり続けたといわれ、今に至る。

この「国境なき記者団」の活動資金はアメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国の政府や組織から出ているという。フランス政府からの寄付も全体の4.8%あるという。もちろん個人からの寄付も受けている。アメリカ・ヨーロッパの各政府や関連団体、財団がスポンサーであるのだから、そもそも「国境なき記者団」の主張が中立であるわけがない。

「報道の自由度ランキング」にしても調査方法も内容も根拠も明らかではない上、日本が上位の国と比べて極端に劣っているとも思えない。確かに記者クラブ制度は良くないが他の国にだって似たようなものはある。どうにも主観が入りまくっているようである。

日本メディアは故ジャニー喜多川氏の性加害スキャンダルを報じないわけだが、「国境なき記者団」もジャニーズ事務所に対する日本メディアの対応の異常さには触れない。ランキングに大きく影響を及ぼすはずが、そういう記事はない。

「国境なき記者団」の広報をおこなっているフランスの大手広告会社の株を電通が所有している。なるほど「国境なき記者団」の党派性に満ち偏向した実態は報道されず、様々なフィルターを通して加工されたアウトプットを我々は消費しているわけだ。

日本の「報道の自由度ランキング」が低い理由を、マスコミは「政府による圧力により報道が萎縮させられている」と匂わせるにとどめ、マスコミを信じない層は記者クラブなどのマスコミの閉鎖性を糾弾するにとどめる。あっちもこっちも茶番劇である。

「報道の自由度ランキング」は取るに足らない風物詩であり、年末に発表される「今年の漢字」のようなもの、そういう理解でいいのだと思う。

川尻こだまは男だった?から考える「男から見る女性」

ツイッターから人気となりアニメ化もされた「川尻こだまのただれた生活」がおもしろい。アマゾンで無料で読めるのでお得である。

ゴールデンウイークに何もすることがない人にお勧めである。

そして最近ある組織(グーグル)から得た情報によると、この漫画の作者は男であるという噂が立っているとのこと。なんと主人公である女性キャラ川尻こだまの中の人は男であった可能性があるわけだ。

そもそも漫画は作り物だし、ペンネームで描くものだし、作者が男であろうが女であろうが問題はないし犯罪でもない。性別が違っていても漫画の面白さは1ミリも損なわれない。しかしなぜかモヤモヤする。

逆に「男だと思っていたら女だった」の場合はなんとも思わない。なぜだろう。「ベルサイユのばら」や「リボンの騎士」の影響だろうか。

しかし「女だと思っていたら男だった」というのはどこか後ろめたい感じがある。

男性に出来ることは女性にもできるのである。もちろん身体的な違いはあるので運動能力などは一般的に男性の方が高いが、社会的に求められる能力のすべてにおいて違いはない。

しかし女性にできて男性にできないことはある。妊娠と出産である(妊娠や出産ができない女性もいることは承知しております)。

子育てを男が担うことはできるが、妊娠と出産は男性にはどうにもならないし、そのつらさや苦しみや喜びを理解することはできない。分かったつもりになるのが関の山である。

本能的に男性は、女性が本来持つ「男には出も足もでない能力」を聖域としているのだ。したがって男性が女性に成りすますと、その聖域を土足で踏み荒らすような不謹慎な感じがするのだと思う。

ポリコレや多様性が幅を利かせる世の中で、こんなことを考える僕は時代遅れなのだろうか。

蛇足だが「川尻こだま」の中の人と噂される藤井おでこさん。こちらも面白い漫画を描いている。これも好きなやつだ。

マスクをしない人が増えてきた

先日、某恩賜公園に行った。結構な人で賑わっていたがマスクをしていない人が増えた。屋外ということもあるが3分の1はマスクをしていない。

通勤電車でもマスクをしていない人がちらほら。

コロナ禍真っ盛りの頃はマスク着用率はほぼ100%だった。あえて0.01%がノーマスクと仮定すれば、いまは10%程度がノーマスクなので、100倍になったということである。

独断と偏見に基づいた感想を述べると、ノーマスク派に「普通の人」が加わった感じだ。

少し前のノーマスク派は、尖った感じの人バカっぽい人外国人酔っ払いで構成されていた。

尖った感じの人は、「同調圧力には屈しないという同調圧力」に屈してる人達、「人と同じことはしないぜ」と考える人達と同じことを考えている人達に分類される。一見して「大多数とは違うのだよ」という雰囲気を醸し出していた。

現在はそういう雰囲気ではない「普通を自認するごく普通の人」も自然体でマスクをしていないようであり、好ましい変化だと感じる。

今朝の通勤電車で隣に立っていたノーマスク男性もどう見ても「常識人」であり、凡人の中の凡人キングオブ普通といった風情であった。

日本人は個性がなく周りを気にしすぎ、外国人は個人主義で個性を大事にするというのが一般的な評価だろう。しかし外国人は「個性的であれという同調圧力」に従う没個性的な存在とも言えるかもしれず、そこにたいした違いはない。刷り込まれているジョーシキってやつである。

長くマスクを強要されている日本人もごく自然に穏やかに抗い始め個性が現れてくるのは面白い。没個性を強要された方が個性が輝くのかもしれないなあと、意味のないことをつらつらと。

ジェンダートイレはデンジャートイレ?

うちのトイレはジェンダーレス対応なのだが、時代を先取りしているわけではなく1ヶ所しかないので当たり前のことであった。

何かとこじれがちなジェンダー界隈であるが、揉めるべくして揉めているのはやはりトイレ問題。新しくできた商業施設などでトイレを「男性用」と「ジェンダーレス用」の2種類に分けた結果、女性から「使いにくい」とか「怖い」などいう声が上がっている。

お洒落にデザインされた案内表示も意味が分からないとお役所的な張紙を加え、ダサさ増し増しである。

ほとんどの男性は男性用トイレに行くだろうからジェンダーレストイレを使用するのは「女性」と「トランス女性」そして車椅子を使用する身障者になるだろう。

多くの女性にとって男性や「男性を感じさせる人」と同じトイレを使用することは不快であるのだろう。弱者(とされる)層をひとまとめにするのも印象が悪い原因かもしれない。

差別をなくすため多様性を重視したら差別や区別が顕在化したわけである。トホホであるよ。

一案だが、ジェンダーレストイレは男性用トイレと一体化し、女性用トイレを別にしたらどうだろう。

一般の男性はトイレに女性が入って来てもそんなにイヤではないと思う。昔から男性用トイレに、女性清掃員が入って来ても問題にならなかった。つまり慣れている訳で。

加えて、その場合ごく少数の、男性用に入ってもいいと考える、女性やトランス女性しか利用しないから大きな問題にはならないはずだ。

そしてそれぞれを利用する性別や属性は今までの「男性」「女性」の分け方とほとんど変わらないだろう。しかしジェンダーに配慮したという言い訳にはなる。

これでいいのでは?何か問題あるかなあ?

立憲民主党はもうダメかもわからんね

衆参5議席を争う補欠選挙は、自民4勝、維新1勝で終わった。野党第一党の立憲民主党は0議席。立憲民主党の一人負けである。

かつて夢見ていた野党共闘も瓦解し、与党に対する明確な対立軸も描けない立憲民主党の現状を象徴している。いずれ野党第一党の座を維新に明け渡し、社民党化してゆくだろう。弱小左翼政党として共産党とともに自民党政権を支えてゆくことになる

選挙前の小西議員の高市大臣との一連のやり取りと発言、衆院山口4区に立候補し惨敗した有田芳生氏の「聖地発言」やその後のツイッターでの場外乱闘。選挙の結果を受け止めない泉代表や党執行部。かつて政権を担った旧民主党の現在地である。

 

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言論の自由を守れと言うくせに自分達への些細な批判に訴訟をちらつかせ、憲法を守れと言うくせに統一教会を悪魔化し攻撃する。権力をもつ政治家としての良識や矜持は微塵も感じられない。ただの珍左翼とでも言うべき騒擾集団と化している。

現在日本において求められてるのは、独裁的な中央集権体制である。

コロナ渦において国民は政府に多くのものを求めた。「給付金をばらまけ」「検査体制を整えろ」「国がやれ」「国が決めろ」。そして患者が増えると政府の責任を追及し、「総理大臣に殺される」と騒いだ。

現在でもあらゆる政策の責任は岸田総理1人にあり、「岸田がやれ」「岸田がきめろ」の大合唱である。国民は国会や地方自治なんぞすっとばして独裁体制を求めているのである。これでは共産党を笑えないわけだが。

そうは言っても海千山千の自民党である。そういった世論を利用し、「民主主義」や「立憲主義」は最低限踏まえて「謙虚」に政権運営をしてゆくだろう。当然ブレーキ役は必要なのであるが、珍左翼と化した立憲民主党ではどうにもならない。ブレーキ役は自民党内の派閥が担うだろう。

こうなってくると自民党が分裂し維新国民を巻き込んで2大政党を形成し政界再編をするのが良いのではないか。2大政党プラス珍左翼という構図。日本の特殊な左翼勢力は社会的役割を終えたのだ。

保守とはなんだったのか革新とはなんだったのか、戦後を総括する時期が来たのだろう。

選挙カーは普通選挙の弊害であるという話

今日は統一地方選挙後半戦の投票日である。
選挙期間中はあちこちで選挙カーに遭遇した。奏でられるのは候補者の名前を連呼するだけの騒音である。うるさいだけだし、その候補者に良い感情を持つようになるとは思えない。むしろ集票に悪影響すらあるのではないか。

先日は町議選に立候補していた候補者が選挙カーごと海に落ち死亡すると言う痛ましい事故もあった。経緯は不明であるという。海に向かって名前を連呼しに行ったのだろうか。選挙に落ちてもやり直しはきくが、海に落ちたら終わりである。

海に落ちるというのは極端な例であるが、ゆっくりと走る車で選挙区を回る行動はスマートではないし危険も伴う。

コロナ前には商店街などで候補者が従者を伴いのぼりを立て、道行く人に握手して練り歩く様子が多く見られた。これを選挙関係者では「桃太郎」というらしい。きび団子を配って歩けば当選確実だろうに。

どうも選挙運動というのは表向きにはバカらしく見える。高い供託金を用意しこんなバカっぽいことを強いらるわけである。そりゃ若者が政治家になりたいなんて思いませんな。地方では立候補者がおらず困っているというが当然である。

なぜこんなことになるかというと「普通選挙」のせいである。

「普通選挙」では一定の年齢になると資格も覚悟も知識も問われず選挙権を行使することが可能になる。賢者にもバカにも選挙権が与えられる。その多様な有権者全体にあわせて選挙活動をせねばならないので選挙活動もバカ化せざるをえない。

有権者が選挙権を行使した結果、国を繁栄させることもあるいは破滅させることもできるわけだが、恐ろしいことに憲法15条には有権者はその結果について責任を問われないとある。

司馬遼太郎は「明治大正まで日本は良かった。しかし昭和に入ってなぜかおかしくなった」と主張し、それは「司馬史観」として知られる。昭和の軍国主義が醸成される一因が「大正デモクラシー」であることを認められないのである。

大正時代にいわゆる普通選挙法が制定され、納税額によって選挙権が与えられていた制限選挙から、日本国籍を持つ25歳以上の成年男子に選挙権が与えられることになった。

女性への参政権の付与はまだ先であるが、当時としては革命的な「民主化」であり、「制限選挙」から「普通選挙」への大転換である。結果として大衆の意見が政治に反映されやすくなったわけだが、政治のポピュリズム化やバカ化の始まりでもあった。

この流れが昭和の軍国主義に繋がってゆくわけだが、「民主化」が錦の御旗である「良識」はそれを認められない。

「普通選挙」は必ずしも正義ではないということである。

選挙制度については過去に書いたことがある。バカが書くバカな意見としてお許しくださいませ。

 

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ChatGPTを憂慮する「サンモニ」の愚

テキストベースの会話AIであるChatGPTが話題である。今までのAIと違い、汎用性、即興性のある回答をすることができるという。

今のところ質問に対する回答がネタ扱いされる程度の暇つぶしツールになっているが、文章の作成、校正、オンライン上のカスタマーサポートや市場調査などへの活用が期待されるという。いずれは文化的なジャンル、小説、詩、映画演劇の脚本、なども作れるようになるだろう。

批判的な意見はおおむね2種類。

ChatGPTにとって代わられ多くの人が失業するというもの。特に文化的な小説家や脚本家、詩人などが不要になるという。

数年前にAIがもてはやされた頃、AIが普及したら不要になる業種が話題になった。しかしスマートスピーカーが少々売れたぐらいで、その後失業者が増えたという話は聞かないのでChatGPTも同じことだろう。さまざまな文書をChatGPTで作成しても最終的には人間が確認しなければならないわけで、少々手間が減るくらいだと思う。

もうひとつの批判的意見は倫理についてである。

ChatGPTが不確かな情報を作成し、それが流布されることで、風評被害や人権侵害がおこったり、間違った世論が形成されるなどの危険が指摘されている。

サンデーモーニングを見ていたら出演者がちょうどChatGPTの倫理的な問題を指摘していた。今まで不確かな情報を流布してきた「サンデーモーニング」が何を言っているのか。これは自虐ギャグなのか。

おまけにこの「インテリ」の皆さんは一般大衆は簡単にChatGPTにだまされ、倫理に反する行動や思考をすると思っているらしい。一般大衆はバカだと言っているに等しい。

大丈夫。

いままでマスコミの偏向報道やインターネットの不正確な情報に向き合ってきたほとんどの日本人はChatGPTにも簡単にだまされない。鍛えられてますので。

ChatGPTに「政治を正すためにはパイプ爆弾を用意しろ」と指示されて用意するバカは普通いない。

とはいえ、バイプ爆弾を作って演説会場で投げる真性のバカは一定数実在する。かつては過激派が爆弾で交番を襲撃したりしていたのだが、そういうバカは左翼インテリの暴走の果てであったのだ。