射手座の魂

はばかりながら はばかる 虚言・妄言・独り言を少々たしなみます

選挙カーは普通選挙の弊害であるという話

今日は統一地方選挙後半戦の投票日である。
選挙期間中はあちこちで選挙カーに遭遇した。奏でられるのは候補者の名前を連呼するだけの騒音である。うるさいだけだし、その候補者に良い感情を持つようになるとは思えない。むしろ集票に悪影響すらあるのではないか。

先日は町議選に立候補していた候補者が選挙カーごと海に落ち死亡すると言う痛ましい事故もあった。経緯は不明であるという。海に向かって名前を連呼しに行ったのだろうか。選挙に落ちてもやり直しはきくが、海に落ちたら終わりである。

海に落ちるというのは極端な例であるが、ゆっくりと走る車で選挙区を回る行動はスマートではないし危険も伴う。

コロナ前には商店街などで候補者が従者を伴いのぼりを立て、道行く人に握手して練り歩く様子が多く見られた。これを選挙関係者では「桃太郎」というらしい。きび団子を配って歩けば当選確実だろうに。

どうも選挙運動というのは表向きにはバカらしく見える。高い供託金を用意しこんなバカっぽいことを強いらるわけである。そりゃ若者が政治家になりたいなんて思いませんな。地方では立候補者がおらず困っているというが当然である。

なぜこんなことになるかというと「普通選挙」のせいである。

「普通選挙」では一定の年齢になると資格も覚悟も知識も問われず選挙権を行使することが可能になる。賢者にもバカにも選挙権が与えられる。その多様な有権者全体にあわせて選挙活動をせねばならないので選挙活動もバカ化せざるをえない。

有権者が選挙権を行使した結果、国を繁栄させることもあるいは破滅させることもできるわけだが、恐ろしいことに憲法15条には有権者はその結果について責任を問われないとある。

司馬遼太郎は「明治大正まで日本は良かった。しかし昭和に入ってなぜかおかしくなった」と主張し、それは「司馬史観」として知られる。昭和の軍国主義が醸成される一因が「大正デモクラシー」であることを認められないのである。

大正時代にいわゆる普通選挙法が制定され、納税額によって選挙権が与えられていた制限選挙から、日本国籍を持つ25歳以上の成年男子に選挙権が与えられることになった。

女性への参政権の付与はまだ先であるが、当時としては革命的な「民主化」であり、「制限選挙」から「普通選挙」への大転換である。結果として大衆の意見が政治に反映されやすくなったわけだが、政治のポピュリズム化やバカ化の始まりでもあった。

この流れが昭和の軍国主義に繋がってゆくわけだが、「民主化」が錦の御旗である「良識」はそれを認められない。

「普通選挙」は必ずしも正義ではないということである。

選挙制度については過去に書いたことがある。バカが書くバカな意見としてお許しくださいませ。

 

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ChatGPTを憂慮する「サンモニ」の愚

テキストベースの会話AIであるChatGPTが話題である。今までのAIと違い、汎用性、即興性のある回答をすることができるという。

今のところ質問に対する回答がネタ扱いされる程度の暇つぶしツールになっているが、文章の作成、校正、オンライン上のカスタマーサポートや市場調査などへの活用が期待されるという。いずれは文化的なジャンル、小説、詩、映画演劇の脚本、なども作れるようになるだろう。

批判的な意見はおおむね2種類。

ChatGPTにとって代わられ多くの人が失業するというもの。特に文化的な小説家や脚本家、詩人などが不要になるという。

数年前にAIがもてはやされた頃、AIが普及したら不要になる業種が話題になった。しかしスマートスピーカーが少々売れたぐらいで、その後失業者が増えたという話は聞かないのでChatGPTも同じことだろう。さまざまな文書をChatGPTで作成しても最終的には人間が確認しなければならないわけで、少々手間が減るくらいだと思う。

もうひとつの批判的意見は倫理についてである。

ChatGPTが不確かな情報を作成し、それが流布されることで、風評被害や人権侵害がおこったり、間違った世論が形成されるなどの危険が指摘されている。

サンデーモーニングを見ていたら出演者がちょうどChatGPTの倫理的な問題を指摘していた。今まで不確かな情報を流布してきた「サンデーモーニング」が何を言っているのか。これは自虐ギャグなのか。

おまけにこの「インテリ」の皆さんは一般大衆は簡単にChatGPTにだまされ、倫理に反する行動や思考をすると思っているらしい。一般大衆はバカだと言っているに等しい。

大丈夫。

いままでマスコミの偏向報道やインターネットの不正確な情報に向き合ってきたほとんどの日本人はChatGPTにも簡単にだまされない。鍛えられてますので。

ChatGPTに「政治を正すためにはパイプ爆弾を用意しろ」と指示されて用意するバカは普通いない。

とはいえ、バイプ爆弾を作って演説会場で投げる真性のバカは一定数実在する。かつては過激派が爆弾で交番を襲撃したりしていたのだが、そういうバカは左翼インテリの暴走の果てであったのだ。

 

 

 

神奈川県知事選 おもしろ人間コンテストかよ

4月9日に迫った神奈川県知事選挙を前に特大の文春砲が発射された。4選を目指して立候補している現職の黒岩知事の不倫スキャンダルである。

黒岩知事はフジテレビのニュースキャスター時代から知事になった2011年頃まで知人女性と不倫関係にあったという。文春の記事では女性に送った下ネタ満載のメールが公開されている。

いくら昔のこととはいえ「生本番前のナマだよ〜!!ニュルニュル〜〜〜。ビチョォッ〜〜〜。ドキピュ〜〜〜〜〜〜!!」とか「A子の料理ってどんなかな?アワビにバナナをさしたやつとか、桃にキュウリをさしたやつとか…」、などのメールが公開された。

自業自得とは言え黒岩知事の心中をお察しする。選挙の当落にも重大な影響を与えるだろうか。しかし有力な他の候補者はいない。

共産党系の市民活動家、小池百合子と結婚したい医者、政治家女子48党をクビになった元タレントと各候補者を並べてみるとおもしろ人間コンテストの様相を呈している。

もともと黒岩知事への信任投票だったので本気で知事の座を狙うまともな候補者はいない。案外今回の大スキャンダルが出て戸惑っているのは他の候補者かもしれない。本気で知事になるつもりはないのだろうから、追い風が吹いちゃ困るのだ。知事になったら大変だ。

この状況では大スキャンダルにも関わらず、消去法で黒岩知事の再選は確実と思う。当選したあかつきにはアワビにバナナを刺してもらいたいものである。

神奈川県民の心中をお察しする。

「レジデント・エイリアン」の感想 ~差別も区別もない浄化された町~

TVドラマを見る習慣はないのだが、たまたま第1回の放送を見たのでそのまま見続けているアメリカのSFコメディー「レジデント・エイリアン」の感想である。

アメリカの田舎町ペイシェンスの近くに地球侵略にきたエイリアンの宇宙船が墜落する。生き残ったエイリアンは湖のほとりに1人で暮らす医者ハリーを殺し、その容姿に擬態し、墜落の際に紛失した人類抹殺装置の捜索を開始する。
そして町に1人しかいない医者が殺され検視を行うことになる。そのまま不在となった町医者の替わりとなり、町の人々と交流が始まるという話。

基本的におバカなSFコメディーでNHKにしては下ネタも多く大変好ましい。登場人物もみな個性的で楽しいのだが、それぞれに苦悩を抱えており群像劇としても楽しめる。中でもダーシー役のアリス・ウエッタールンドが色っぽくてよい。非常によい。

舞台となる田舎町ペイシェンスは娯楽はボーリングぐらいしかなく、町に1軒あるバーが唯一の社交場である。登場人物の何人かはうだつの上がらない町に失望して、都会に出て行き、上手くいかなくてまた出戻っている。日本でもあるザ・田舎町である。

口の悪い保安官は黒人でその代理は気の弱い白人女性。医者ハリーの相棒となるヒロイン、アスタはネイティブアメリカン系。若く気が弱い町長ベンの息子マックスの友達はヒシャブをつけておりイスラム教徒だろう。

多様な人種が登場しているのはポリコレの影響であろう。ドラマ内でもまったく「差別」はない。もちろん問題はないのだが不自然な感じがするのは「区別」もないからだ。たとえば「あの子はイスラム教徒なのか」とか「私はネイティブアメリカンの血を引いているの」とかそういう台詞すら全くない。

「差別」はもちろんのこと「区別」もないことにしているのだ。なんともきれいに浄化されたポリコレ的に正しい田舎町である。

もちろんドラマはフィクションであるので問題はないと言えば、ない。ただ不自然なのである。楽しいコメディにさりげなくある種の意図がこめられている気がするのは下衆の勘ぐりか。

今後の展開として主人公のハリー(エイリアン)の正体と人類抹殺という目的が明らかになるだろう。するとエイリアンへの敵対心むき出しの差別が始まることになるはずだ。さすがにエイリアンはポリコレや多様性の範囲外であるので。

今後はますます差別的区別的な描写が創作物においてNGになってゆくのだろう。それは創作物の幅を狭めドラマ性に制限を加えることになる。多様性が担保され、きれいに浄化されたものしかなくなるのだ。日本でも映画やアニメ、小説などだんだん不自然に息苦しいものになってゆくのだろうなと思う。

高市大臣VS小西議員 鏡に映る自分達と戦う野党

出所のあやしい行政文書が捏造なのか本物なのか。重要案件や予算審議そっちのけで行われた高市早苗経済安保担当相と立憲民主党小西洋之議員のバトルは高市大臣の勝利で終わった。

マスコミは「逃げ切った」と表現しているが、そもそも小西議員の主張は無理筋であり、安倍総理の後継者と言われる高市大臣を手段は問わずとも叩けば、支持が得られるとでも考えていたフシがある。この「辞める辞めないの低次元なバトル」は政治やメディアが国民をバカだと思っている証左である。

高市大臣が放送法の解釈を巡り放送局に圧力をかけたと吹聴しておきながら、小西議員は今回の騒動の報道に関して一部メディアに圧力をかけ、SNS等での誹謗中傷には法的手段に訴えると息巻いている。

小西議員の目に映る高市大臣は鏡に映る自分自身であり、その自分自身と戦っていたのではないか。国会議員であるなら権力を乱用し敵対勢力を叩けると思っている小西議員は高市大臣も同様であると考えるわけで、それを叩けばウケると。矛盾は明らかでもマスコミが味方してくれると思っていたのだろう。

しかし無理筋すぎて見方のはずのマスコミにも見放されて、森友加計問題の再来とはならなかった。

共産党も自民党政権を「横暴だ」「独裁だ」「強権だ」と批判するがこれも鏡に映った自分達であることは、最近の党員除名事件で明白である。

野党は具体的な政策論争を放棄して鏡に映る幻影と戦っている。

野党支持のリベラル勢力は自民党を批判している場合ではない。まずこの野党の体たらくを批判することが大事である。しかしリベラル勢力も鏡を見ているだけな気がするので、まだまだ自民党政治は安泰であると言える。

高校球児の帽子のへこみは……バットを置くため

春の選抜高等学校野球大会の準決勝は劇的な逆転で報徳学園が大阪桐蔭に勝利した。大阪桐蔭が負けたのでうれしい。大変申し訳ないが僕は大阪桐蔭が嫌いである。

私立の野球強豪校は皆全国各地から有望な選手をかき集めビジネスとして野球興業に加担する点で、大阪桐蔭と違いはない。しかしその中で大阪桐蔭だけは嫌いと公言しても良い雰囲気があるのだ。大阪桐蔭はなんとなくヒールを進んで引き受けている感じがありエライ。大阪桐蔭は嫌いである、しかしエライのだ。何を言っているのだ。

しかし相変わらず高校球児のユニフォームの着こなしは不思議である。

ズボンは体にぴったりとしたサイズで、下半身はピッチピッチでモッコリである。鍛えた太ももの筋肉が強調されるのがカッコいいらしい。プロ野球選手のようにズボンがダボダボしていると動きにくいだろうからこれは分からんでもない。

気になるのは帽子である。大きめのサイズで上部の前面にくぼみをつけ浅く被っている。夜な夜なクリップなどで固定して型をつけるらしい。

浅く被っているので頭は大きく見えてなんともカッコ悪い。投手なんかは帽子が取れやすい。型をつけずに普通に被っている高校が極めて正統に見える。

この謎の帽子のくぼみは何だろうかと2分ほど考えてみた。

バットを置いたり持ち運ぶためのものではないか?

先輩後輩の上下関係が厳格な高校野球のこと。先輩が使い終わったバットを頭で受けとめ大事に運搬するためのくぼみなのだ。これなら両手も使えるしバットを頭に載せるのことでバランス感覚も養われる。なるほど強豪校ほど帽子のくぼみがある理由が判明した。

大阪桐蔭の選手も帽子にくぼみがあった。みんな先輩のバットを頭で運んで絆を深めてきたのだろう。素晴らしい。大阪桐蔭が嫌いなんて考えてはいけないのだと考えを改めた。

そんなことを考える3月の終わり。

 

 

「必勝しゃもじ」批判。日本は「平和」だねえ

岸田総理がウクライナ電撃訪問の際に持参した「必勝しゃもじ」が批判の対象になっている。

この「必勝しゃもじ」、「飯取る」の意から転じて敵を「召し取る」となり、日露戦争の際に縁起物となったらしい。

そもそも広島では、学門・豊穣・繁栄・勝負事の神である弁財天が持つ琵琶を真似た杓子が縁起物として尊ばれている。

日露戦争のエピソードを踏まえればゼレンスキー大統領への贈り物として相応しいだろう。そんなに悪いチョイスではないと思うのだが、あちこちでケチョンケチョンな言われようである。

おそらく「突撃となりの晩御飯」のせいでしゃもじの印象が悪いのだろう。つまり悪いのはヨネスケである。

しゃもじが悪いというなら他に何があったのか。赤べこか?こけしか?ニポポか?高崎名物のだるまか?どれもイマイチである。

木彫りのシャケ熊ならどうだ?熊がプーチン、シャケがゼレンスキーという趣向だ。おっとこれは最悪だ。ゼレンスキー閣下の親衛隊に××されてしまう。つい指が滑った。

これではしゃもじの方が随分とマシではないか。むしろしゃもじ以外の選択肢はない。

ならばと民芸品から離れて、ユニクロ大統領に一張羅のスーツでも贈ればよかったというのか。

いずれにせよ、今回の一件はむきになって批判することではない。そんなにしゃもじが憎いのか?ヨネスケが憎いのか?いや単にキシダが憎いのだろう。

日本はつくづく「平和」だねえと思う。

WBC優勝!天国の水島新司も喜んでるね!

WBC侍ジャパンが優勝した。まったく野球マンガのような展開で。

不調に苦しむ三冠王村上は劇的復活を遂げ、アメリカからきたヌートバーはチームに溶け込み大活躍。投手陣も安定していて、最後はダルビッシュから大谷への継投で締めた。

アメリカの監督が「台本があるようだ」とコメントするほど日本にとってドラマチックな展開であった。

優勝した第1回WBCも台本があるかのような展開で、さらに悪役としてお隣の国が配役されるオマケ付き。

きっと天国の水島新司先生が書いたマンガに違いなく、優勝を誰より喜んでいるのではないかと考えてしまう。

ここ10年くらいでプロ野球に興味がなくなり、心の友(勝手に言ってる)イチローが引退したこともあり野球に興味がなくなったのだが、今回のWBCは楽しませてもらった。

ただひとつ気になったのは、なぜ野球は監督やコーチが選手と同じユニフォームを着ているのかという点である。

他のスポーツでは監督は好きな格好をしている。サッカーでは重要な試合だと監督はスーツを着たりする。試合に出るわけじゃないし。

例えば水泳や新体操で監督やコーチが選手と同じにレオタードや水着だったらなんとも珍妙な光景となろう。

 

追記。最初の投稿で水島新司を水島真司と書いてしまいました。スマホからの投稿は注意が必要ですね。老眼なもので……。すいません。

ガーシーと憲法15条

世の中を騒がせてきたガーシー参議院議員が除名され国会議員の地位を失った。

すかさず暴力行為等処罰法違反で逮捕状が出されて警視庁はICPOに国際手配を要請するという。加えて警察庁はガーシー前参議院議員への旅券返納命令を出すよう外務省に要請した。

ガーシー議員はあっという間に「東谷義和容疑者」となった。なんともわかりみが深い。

所属していた立花党首の言動もめちゃくちゃであり、率いるNHK党は「政治家女子48党」と名称を変更した。一連の出来事のバカバカしさにお父ちゃん涙が出てくるわけだが、このバカバカしさは民主主義の生み出す側面として批判しきれない。民主主義を前提とした普通選挙制度が目指してきた理想であるからだ。

為政者を一部の特権階級に独占させずにあらゆる層に門戸を開く。それがどれだけ不道徳で犯罪者的な者であっても被選挙権の要件を満たせば問題ない。

投票する側も同様である。

こちらはさらに深刻で、資格も必要なく一定の年齢になれば自動的に選挙権が付与される。バカでも不道徳者でも関係なく。普段政治に無関心であっても選挙に行けば褒められる。普通選挙は「バカ化」なのだ。しかしこれを批判すると人権思想に反するのだ。

オマケに憲法15条4項にはとんでもない事が書いてある。

すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

選挙人(有権者)がどのような選択をしても一切の責任は問われないという恐ろしい内容である。憲法上ではガーシーに投票した有権者を責めることもできないし、反省を求めることさえ出来ない。バカが立候補しバカが投票することを可能とすることは「民主主義」が目指してきた理想であり到達点であるとさえいえる。

ガーシーを批判することはたやすいが、この出来事を突き詰めると「民主主義」の根本的な宿命が横たわっている。そこを踏まえないとワイドショー的話題にしかならない。

そして現在、ポンコツでも「民主主義」は無敵である。特に西洋型民主主義を持ち出せば多くの人の思考は停止する。しかしリベラルに振れ過ぎて色々な矛盾が明らかになってきた。LGBT問題への対応もしかりである。

いいかげん民主主義もアップデートが必要である。

そのためにも日本では建設的な憲法論議が必要であるのだが遅々として進まない。その足を引っ張るのは「人権主義者」や「民主主義者」である。

坂本龍一に乗っかるマスコミの「なぜ」

原発回帰の方針を示す政府を批判するメッセージを音楽家坂本龍一が東京新聞に寄せたという。3月15日の記事にある。

なぜこの国を運営する人たちはこれほどまでに原発に固執するのだろう。

から始まり「なぜ」が3回使われているのでマスコミは「なぜ」と言う言葉を効果的に利用している。内容はその道の専門家でもない反原発の音楽家によるありふれた原発・政府批判であり、居酒屋談義の域をでない。

そして今度は坂本龍一は神宮外苑の開発見直しを求め東京都知事などに要望書を送ったという。

外苑の樹木は人々に恩恵をもたらす美しい自然であり、開発は一部の既得権益者と富裕層にだけ恩恵をもたらし、SDGsの世界的な流れに反し持続可能なものとは言えない、という趣旨。

要望書を送ったのは小池知事、永岡文科相、都倉文化庁長官、吉住新宿区長、武井港区区長の5氏。神宮外苑の大半を所有する宗教法人明治神宮や開発業者の三井不動産には送っていないのは疑問である。しかも民間の開発を東京都知事の権限で止めさせることは無理なことを分かっている上である。

癌闘病中の世界的ミュージシャンだからニュースになるわけで、一般人が同じ事をしても全く黙殺される。この程度の言説に乗っかり利用するマスコミはあまりに不見識である。坂本龍一の最後の活動家としてのメッセージに乗っかり権力批判をしているに過ぎない。こういった安易なマスコミの姿勢が反対運動の足を引っ張るのだ。

大江健三郎が死んだがその小説自体より活動家として印象が強い。坂本龍一も同様に音楽家としてより活動家として歴史に残りたいのだろうか。かつてのYMOメンバー細野春臣や故高橋幸宏とはエライ違いである。